2025年6月25日水曜日

マーサ社長夫妻の還暦祭

先日、大阪阿波座のカフェマーサにて開催されたマーサ片平社長夫妻の還暦をお祝いする演奏会パーティーに参加した。社長とは学生時代に同じ軽音学部に所属し、4年間一緒にバンドをやっていた仲(社長はドラム担当)。
当時のバンドメンバーや軽音の先輩や後輩、主に学生時代に出会った音楽仲間が多数集まってのステージが、午後1時半から10時近くまで長時間に渡って続いた。

ステージに上がった誰もが、音楽にときめいている様が伝わった。40年の歳月が流れても音楽の魔法は有効なんだと思った。
一度音楽に出会ったら、一時音楽を手放したとしても、音楽は待ち続けてくれているのだ。またこうやって音楽を通じて皆と楽しい時間を過ごせたことを心から嬉しく思った。

楽しさの中には、なんとも言えないビタースイートな味わいも含まれていて、その感覚を誰も言葉にはしないけれど、だからこそ愛おしくて貴重な1日だったのだ。

還暦という機会を生かして、みんなの再会と確認の場をつくろうとした社長の企みを、その場にいた誰もが汲み取って、その思いに共感し、感謝していたと思う。

おめでとう、ありがとう。

ー 2025年6月25日(水)

2025年6月9日月曜日

あれから40年

 7年振りの伊勢・カップジュビー、感慨深い夜だった。

お店のマスターでもある共演者の外ちゃん(外村伸二)とは、学生時代にLittle T&Aというロックンロールバンドを一緒にやっていた仲。当時は彼がボーカル&ギターで自分がキーボード担当。外ちゃんと当時のバンドメンバー達との出会いが自分の音楽人生に与えたは影響は大きい。
昨夜の外ちゃんのステージのバックで演奏した片平(ドラム)と浅川(ベース)は、当時のバンドメンバー。アンコールでは、外ちゃん、片平、浅川、そして地元メンバーの岡野君(ギター)、横山君(ベース)も加わってのバンドセッション。Little T&A時代の曲も2曲演奏。どの曲も当時よりも演奏のテンポが落ちていて、年齢を感じたけれど、演奏しながらこれでいいんだと思った。
お互いがさまざまな思いを抱えながら歳を重ね続けて、40年後にまたこうやって素直な気持ちで一緒に音を交わし合うことができて、ホント良かった。歳を重ねて、それぞれが前より少し優しくなれた気がした。
「やっぱり音楽は最高やな」としみじみ実感した夜でした。
ありがとう、また。









2025年6月6日金曜日

傷つけた記憶

人を傷つけた記憶が蘇ってきて辛く感じることが多くなった。
相手の痛みや経験に対して鈍感であったことを後悔しているし、また繰り返してしまうことを恐れてもいる。
ただ、「自分が悪かった」と単純に片付けるのは違う気がしていて、何を伝えようとして、伝え方をどう間違えたのか、言葉の影響力やリスク、コミュニケーション、関係性のあり方等々、自問し続けている。

2025年3月26日水曜日

How does it feel? ー ディランの映画「名もなき者(A Complete Unknown)」を観た

方々で評判になっている若き日のディランを描いた映画「名もなき者(A Complete Unknown)」を観た。
まず映画として面白かった。2時間20分があっちゅうま。

映画を通して伝わるディランの人柄や振る舞いに憧れたり影響を受けるようなことはもうないけれど、あらためてディランの楽曲の素晴らしさを再認識した。大いに触発され、映画を観ながら創作意欲が湧いてくるのを感じた。
ディラン演じるティモシー・シャラメの、ディランに寄せつつもメロディーに忠実で本人よりもクセを抑え気味の歌唱が、曲の魅力をよりわかりやすく伝えてくれたと思う。

映画のクライマックスは、ニューポート・フォーク・フェスティバルにディランがトリで出演する際、主催側の意向であるアコースティックギターでの演奏に従わず、エレキギターを手にバンドを率いてステージに上がる、あの伝説のシーンだった。
映画でそのシーンを観て、ディランに喝采を送る気持ちにはなれなかった。どちらかに一方的に肩入れするわけではないけれど、無粋に振る舞うディランに振り回されるピート・シーガーやフェス関係者が不憫に思えた。

当時のディランは既に「名もなき者」ではなく、時代を味方につけ(一部から批判も受けつつ)、アメリカのフォークシーン全体よりも影響力を持つ強者だったはずた。フェスでのディランの行為は最上のインパクトと効果をもたらし、時代の変化を早めたのかもしれないけれど、それによって多くの人達が大切に育んできた文化が蔑ろにされ切り捨てられたことも事実だろう。

ピート・シーガーやフェス関係者の頑なとも思えるこだわりは、アメリカンのフォークミュージックのリバイバル運動の歴史や背景を知らなければ理解できない部分があると思う。
映画の中でピートがディランに対して、人々がスプーンで砂を掬っているところに、大きなシャベルを持ち込むことへの暴力性を訴える場面が印象に残った。

フェスが終わった翌日に会場の後片付けに勤しむピート・シーガーの背中を見て、ディランは何を感じたのだろう。
どちらかと言うと自分も、一つのシーンに殉じることができないタイプではあるけれど、自分がこれまで手にし続けてきたのはシャベルではなくスプーンの方だ。人として身近に感じたのは、ディランよりもピートの方だった。

映画を通して、ディランに関わるまわりの人間の苦悩は十分伝わってきたけれど、本人の心の機微はそれほど伝わってこなかった。そのミステリアスさがディランらしく魅力的であると同時に、その割り切り具合に残酷さも感じた。
この映画はディランを描くことで、革命に伴う犠牲の存在にもスポットが当てられている。観終えた後には、映画タイトルの「名もなき者」はディランを指す言葉ではないように思えた。

20代の頃にこの映画を観ていれば、間違いなくもっとディランに肩入れしただろう。見解の変化は、自分の数十年の生き方の反映だ。
若い頃にディランの音楽と言動に心躍らせた同世代や年配の人達は、今この映画をどんな心持ちで観たのだろうか。
How does it feel?

ー 2025年3月26日(水)

2025年3月25日火曜日

「御上先生」最終回を観て

ツアー戻りで TBSドラマ「御上先生」の最終回をU-NEXTで観た。
名作に相応しいエンディングだった。

「頭の中に答えの出ない質問がたくさんあることは未来そのもの。苦しみの中選び取る答えは、きっと弱者に寄り添うものになる。」
御上先生が卒業してゆく生徒達に送った言葉の中に、この物語の主張と願いが凝縮されているように感じた。

ドラマの中で生徒の神崎君が言っていたように、安易な答えにすがることなく悶々と考え続ける作業は、「自分にやさしくない」し非効率でもある。けれど、その面倒なプロセスを経てゆくことが、多様や雑多に基づく破滅回避の継続社会を切り拓いてゆくのだと思う。

物語を単純化することなく、知性を全面に押し出し、受け手の感性に委ねるようなドラマだった。
知性に欠かせない要素の一つは、弱者に寄り添う想像力であることを作品を通じて再認識させてもらった。
続編希望します。

ー 2025年3月25日(火)

2024年12月26日木曜日

「問いかけ」の存在 ー 星野源君のNHK紅白選曲問題で、ジョニー・キャッシュのドキュメンタリーを思い出す

星野源君の紅白での選曲問題が話題になる中、Netflixで配信されている「リマスター」というドキュンタリーシリーズで、アメリカのカントリー歌手、ジョニー・キャッシュが取り上げられた回を思い出した。彼が1970年にニクソン大統領に招かれてホワイトハウスでライブショーを行った際の「事件」に焦点を当てた内容だ。

当時のアメリカは、泥沼化するベトナム戦争の行方をめぐって国の分断化が深刻な状況。そんな中、共和党寄りでニクソン支持を表明していたジョニー・キャッシュが、戦争を遂行する本人の目の前で、こともあろうに自作の反戦ソング「What is Truth」を披露する。
その場面は、「反逆者」たるジョニー・キャッシュがニクソンに対して中指を立てた瞬間として語られることが多いようだけれど、自分がそのドキュンメンタリーを見て受け取った印象は、それとは少し違っていた。

ドキュメンタリーは、ジョニー・キャッシュがホワイトハウスで歌う直前にベトナムを慰問することで、現地の悲惨を知り、より現状の理解を深めて、自身の考えを更新してゆく姿を伝えている。彼はホワイトハウスのステージで、ニクソンにもその現状を歌を通して真摯に伝えようとしているように見えた。ジョニー・キャッシュの披露した曲の調子やステージでの振る舞いは、ニクソンに理解を求め、変化や融和を期待する姿のように自分には感じられた。

その期待は、ニクソンがカンボジア侵攻を決断することで裏切られてしまうけれど、党派性に振り切れることなく弱い立場に寄り添い、「間に立つ者」であろうとするその態度は、今この世界で必要とされる希望だと思う。

星野源君が最初に紅白で歌おうとしていた「地獄でなぜ悪い」から批判を受けて変更した「ばらばら」への選曲の流れと、ジョニー・キャッシュがホワイトハウスで披露した反戦歌「「What is Truth」に共通するのは、「問いかけ」の存在だと思う。正義の答ばかりを性急に求めて「問いかけ」を失った時、世界はいがみ合い、ばらばらに破滅してゆくだろう。
世界は一つになれない、完全には分かり合えないことを理解し合いながら、重なり合ってなんとかうまくやっていけたらと思う。どうにかして悲しい記憶を超えてゆきたい。

ー 2024年12月26日(木)

2024年10月23日水曜日

映画『ジョーカー フォリ・ア・ドゥ』感想

賛否両論の映画『ジョーカー フォリ・ア・ドゥ』を観てきた。
ジョーカー信者の期待には安易に応えない、切実かつ誠実、前作とはまた違った余韻を残す傑作だと思った。観終えた後に無性に誰かとこの映画について語り合いたくなった。

前作がもたらした熱狂と社会に与えた影響は、トッド・フィリップス監督ら製作陣の想像や意図を超えていたに違いない。今作は、そのような状況を受けての製作者側の返答とも取れる内容に思えた。

ジョーカーの物語でありながら「悪のジョーカー」としての活躍がメインから外れているので、前作に比べればカタルシスに欠ける内容であることは否めない。けれど、そのカタルシスの抑制が、アーサーという一人の人間の機微によりスポットを当てる効果をもたらしたように思える。
前作に続き今回もホアキン・フェニックスの全身全霊の演技に圧倒された。自身が演じる主人公・アーサーへの深い理解と愛情なしにあのような演技は成り立たないだろう。

特に物語と歌詞を含めた音楽のリンクが素晴らしく、この作品をミュージカル映画として捉えるならば、自分の知る限り、これほど生々しく切実で美しいミュージカル映画には今までに出会ったことがない。
エゴを抑制したレディー・ガガの歌唱は無論、ホアキンの感情と直結したかのような企みのない歌唱にもぐっときた。選曲のセンスにも痺れたし、用意されるシチュエーションによってこれほどまでに楽曲のリアリティーが高まるのかと感心した。

劇中でレディー・ガガが歌う「That’s Life」は、8月の京都・拾得公演で近藤房之助さんとのデュオで演奏した曲だったし、エンドロールで流れたホアキンが歌う「True Love Will Find You in The End」は、ダニエル・ジョンストンのオリジナル・ヴァージョンで最近頻繁に聴いていた曲だった。こうした個人的なリンクも作品へのシンパシーを深める一因になったかもしれない。

「音楽があれば人間は狂わずにいられる」
悲しい物語の中で、このフレーズは一つの救いのように響いた。誰にとっても音楽が救いになればいいのだけれど。

物語は、「ジョーカー」がアーサーから他の誰かに受け継がれたことを示唆してエンディングを迎える。今作では、主人公のアーサーがジョーカーを全うできない男として描かれている。『ジョーカー フォリ・ア・ドゥ』は、怪物ではなく、繊細で弱く悲しい人間を中心に描かれた物語だった。そこに不満を感じた人も多いようだけれど、自分にとっては納得のゆく続編だった。

フィクションを超えてジョーカーが求められる社会、狂うしかやってられない社会はあまりにも不幸だ。現実社会がフィクションのディストピアに追いつかないことを願っている。
映画の更なる続編が作られるのかどうかはわからないけれど、人々の心の中からジョーカーが消えない限り、ジョーカーを巡る物語はこれからも延々と続いてゆくのだろう。

ー 2024年10月24日(水)