2009年4月19日日曜日

辺境の地白石にてーほんと色々受け取った~!

場所:白石城天守閣前特設ステージ
【出演】リクオ/沢知恵/沢田としき(ライブ・ペインティング)
★Live!Miltonianaカフェミルトン・ライブ
【出演】下地勇/新良幸人&大島保克/山口洋&リクオ
 よく晴れて、野外ライブには絶好の日和。穏やかな気候は、アルコール漬けの体にはとてもやさしく感じられた。
 暖冬のせいで白石城の桜は既に散っていたけれど、このシチュエーションに「はかめき」という曲はよくマッチした。演奏に反応して沢田さんの絵はどんどん変化していった。
 この会場での共演者である沢知恵さんの名前は方々で聞いていたけれど、お会いするのも演奏を聴くのもこの日が初めてだった。力強さと包容力を兼ね備えたぶれのない表現、世代を超えて伝わる音楽だと思った。「こころ」というせつない曲が特に印象に残った。
  ただ、沢さんの放つ光は自分にはまぶし過ぎるようにも思えた。なぜなんだろう?彼女の音楽に触れて「自分のメンタリティーはやっぱりブルーズマンやソウル シンガーの方へ向いているのだな」とあらためて感じた。ソウルシンガー、レイ.チャールズの生涯を描いた「ray」という映画の中の一場面を思い出した。
 若いレイは、恋人とはじめて一夜を共にした朝方に、曲作りを始める。その曲は既存のゴズペルのメロディーを引用して、そこに性愛の歌詞を乗せたものだった。信仰心の厚い彼女は枕元でその歌を聴いて、激しく戸惑いレイをとがめるのだった。
 多分自分は沢さんに比べてぶれているし、混沌としている。けれどそのことで卑屈になることはない。そのぶれや混沌が生み出す心のノイズやダイナミズムを形にできればいいのではないかと思うのだ。
 自分は沢さんの歌の中にも、保克くん、幸人くんの歌のなかにも神様と形容したくなるような確たるものの存在を感じた。ただ、沢さんの神と保克くん、幸人くんのそれはまた違う感じがした。それは一神教とアニミズム、多神教との違いのようなものかもしれない。
  前日の打ち上げの席で保克くんと話していたときに、彼が「沖縄の唄者はならず者ばかりですよ」と言っていたのを聞いて、少し腑に落ちたような気持ちになっ た。彼らが抱く神さんは、自らの欲望や業に向き合ったり、流されてしまったりするならず者を受け入れてくれる大らか存在なのだろう。

 夜はカフェ.ミルトンでイベント最後のステージ。客席は立錐の余地がない入りだったけれど、PA席の後ろに場所を見つけて、共演者のステージもなるべく観るようにした。
 下地勇君は出身である宮古島の古い島言葉でオリジナルを歌う。その言葉がときにはフランス語のようにも、ポルトガル語のようにも聴こえた。実にエキゾチックな響きを持った音楽だった。
 新良幸人&大島保克の演奏は、近年自分が体験した中でも最良の音楽の一つと断言できるくらいに素晴らしかった。出番を直前に控え、ステージの最後まで聴けなかったのがとても残念に思えた。
 石垣島の集落、白保出身の同級生2人が奏でる音楽は、過去、現在、未来が分断されることなく繋がり続ける進行形の島唄で、あらゆる共鳴に満ちていた。これが7年振りの共演とは信じられない程、2人の息はぴったりだった。
  2人が奏でるリズム、グルーヴはとても興味深かった。どの曲もリズムがはねてシャッフル気味なのだ。日本の民謡は4拍子なら、1拍3拍にアクセントが置か れるのが基本的だと自分は思い込んでいたのだが、2人の乗りはいわゆるバックビート気味で、どちらかというと2拍と4拍にアクセントが置かれているように 感じた。そのことを保克くんに確認すると、沖縄の島唄は2拍4拍にアクセントを置く方がしっくりくるとのこと。だから本土のステージで、お客さんから1拍 3拍で手拍子されると演奏しにくいそうだ。ええ?そうなん?
 彼らのリズム感、タイム感は、自分が影響を受けたブギウギやブルース、ニューオーリ ンズ.ピアノのそれに共通していた。これは古謝さんと共演させてもらった時にも感じたことだ。だからセッションしても、乗りが合いやすい。山口洋のギター も独特のはね具合があるのだが、それは幸人くんの三線の乗りととても相性がいいように感じた。
 石垣出身の2人の演奏は今の自分に、多くの刺激、発見、示唆を与えてくれた。自分は2人や勇君に比べて根無し草であることをはっきりと自覚した。けれど、そのことをネガティブにはとらえていない。
  幼い頃からの生活に根ざした音楽的ルーツを持ち、それらを共有することで生まれる音楽の素晴らしさも知りつつ、自分は根無し草の立場で旅を続け、自分なり の繋がりの形、共鳴空間を築いてゆこうと思う。自身の井戸を掘り続けて行けば、さまざまな場所に繋がる水脈にたどりつけると思うのだ。

  山口洋にとってこの夜のミルトンでのステージは格別の意味合いがあったはずだ。彼はここミルトンでのライブを収録したアルバム「Live at Cafe Milton」をリリースしたばかりなのだ。このアルバムは、辺境の地で育まれた「共鳴空間」の一つの理想形がパッケージされていると思う。彼の真骨頂と も言える緊張と開放のダイナミズムが、弾き語りというシンプルな表現スタイルによって、最大限に生かされた作品になった。
 この夜のヒロシは自分 の中に充満したエネルギーに振り回されながら、それらをぎりぎりのところでパフォーマンスとして昇華させようとしていた。ライブの後、彼はそのエネルギー について「邪悪なものが降りて来た」という表現をしていた。この暴発しかねないぎりぎり感、ひりひり感は諸刃の剣にもなりうる彼の魅力の一つだ。
 「もしかしたら山口洋は今、オレ以上に自分が『根無し草』であるということを自覚しているのかもしれない。」そんなことも感じた。
  「『根なし草』の旅のプロセスを表現しつづけること」が自分や山口洋の終わらないテーマの一つかもしれない。その道のりで、気負い、不安、もろさ、不安定 さが露呈されることもあるだろう。自分はそんな自身につっこみを入れること、のりつっこみの精神も忘れずにいたいと思う。関西人やし。
 アンコールでのセッション曲は昨日に続いて出演者全員で「満月の夕」を演奏。幸せな出会いが結実したような演奏になった。この頃には荒ぶっていた魂もおだやかなグルーブを奏でていた。

  違う場所でこの日のメンバーと共演していたら、このような刺激的な出会いは成立しなかったかもしれない。白石という「辺境の地」であったから、ミルトンと いう最高の共鳴空間であったからこそ成立した出会いなのだろう。こういう「辺境の地」の方が既存のシステムからはずれた宴、共鳴空間を形作りやすい、時代 はそんなふうに変化してきてるように思う。
 この2日間、街のさまざまな場所で音楽が奏でられていた。地元だけでなく日本各地からも多くの人達が 集まり、方々で嬉しい再会や初対面の挨拶がかわされていた。こういう現場に身を置けることは音楽人として幸せなことだと思う。Miltoniana の主催者であるミルトンのマスターとママ、そして地元のスタッフの人達の熱量、思いには頭が下がる。ほんとたくさんのものを受け取らせてもらった。心から 感謝したい。

 宴の終わりは次の宴への始まりである。9月初旬には自分が暮らす湘南の街でも、自分が関わって2日間に渡るミュージック.フェスティバルが開催される予定だ。やるぞ。

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