2026年8月10日月曜日

AI以前から、音楽は、人間は、均一化を求めていた?

ここ数日、SNSのタイムラインで見かけるようになった、太田裕美のヒット曲「木綿のハンカチーフ」のレゲエ・アレンジ動画。AIによる生成であることに気づかずに聴いている人も多いようだ。

ここ1年ほど、AI生成による音楽を意識的に聴いてきた。
おかげで、「なんとなくAIっぽい」と感じる聴覚が、ある程度身についてきたようで、この音源がAI生成であることには、すぐに気づいた。

でも、だからといって、このヴァージョンが良くないと断定したいわけではない。

レゲエ特有のオフビートのスキンクや、ダブっぽいエコー、土着的で生々しいノリがしっかり出ているし、「遊び心のあるアレンジ」としても楽しめるクオリティーだと思う。
ただ、「AIであっても、良いものは良い」と、そんなふうに素直に受け入れてしまってよいのだろうか、という躊躇や戸惑いを拭い去ることはできない。

「ある程度楽しめるけど、どこか割り切れない」というのが、今の自分の正直な気持ちだ。
そして、「次第にAIの音に、自分の耳が慣れていってるんじゃないか」という静かな怖さも感じる。
その先に、均一化による飼育的な支配を想像してしまうのだ。
人間がすでに求めていた均一化を、AIが極端なかたちで実現してしまうのかもしれない。

無意識に均一化を求める傾向は、AIが登場する以前から、音楽ファンの傾向の一つとして、自分は感じ取っていたように思う。
コアな音楽ファンの多くは、好みのジャンルに収まった一定の様式を追い求める傾向がある。自分も、リスナーとしてはそうした傾向をある程度持ちながらも、表現者としては、どうしても様式から外れてしまい、どのジャンルにも、どのクラスタにも所属できないことを、これまでずっと自覚してきた。
少し意地悪な見方かもしれないけれど、AI生成による音楽を頑なに拒否している一部のコアな音楽ファンこそ、実はAIとの親和性を有しているように、自分には感じられる。

「正しい音」「正しい演奏」「正しい美学」を大量のデータから学習して、それらしい中央値を出してくるAIは、ある意味では、ジャンルというものが長年培ってきた様式性を極端に純化した存在とも言えるのではないか。
YouTubeに溢れるAI生成による音楽の中で、特に'70年前後のソウル系サウンドが目につくのも、そうした音楽が様式美を再現しやすいことと無関係ではないように思える。

そういった人たちがAIを受け入れられない一因は、これまで築いてきた「音楽の神話」のようなものが、AIによって崩されてしまうからじゃないだろうか。

'00年代後半くらいからだろうか。AIが登場する以前から、'60~'70年代のモータウン、スタックス、Hi(ハイ)などを意識した録音・アレンジで、ヴィンテージ機材やアナログ録音へのこだわりを特徴とする「ヴィンテージ・ソウル」「レトロ・ソウル」と呼ばれる潮流が目立つようになった。

その流れにある大抵のバンドには好感を持ったけれど、一方で、それらの多くのサウンドが、自分にはどこか画一的に聴こえた。上手いし、サウンドも好み。でも、その音の向こう側にいる「演奏する個人」の姿が、あまり見えてこない。破綻がなさ過ぎるのだ。
そうした音楽には、既存の様式を高い精度で再現することを、音楽的な価値として高く置く傾向が見られる。その傾向こそが、AI生成音楽のあり方と重なるのだ。

AIが均一化を生み出したのではなく、音楽の側に、人間の側に、以前から存在していた「均一化への欲望」を、AIが極端な形で実現しようとしているのではないだろうか。

今は音楽に限らず、AIを使って自分自身の感覚を実験しているような状態だ。
無理に「楽しむべき」とか「警戒すべき」と決めつけずに、その両方が同時にある状態を、そのまま感じ続けてみようと思う。

ー 2026年8月10日(月)

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