「戦争に反対する唯一の手段は、各自の生活を美しくして、それに執着することである。」
英文学者で文筆家の吉田健一氏が、短い随筆の中に残したこの一節は、ピチカートファイヴの小西康陽氏がたびたび引用することで、広く知られるようになった。
「生活を美しくする」とは具体的にどういった行為なのか。「生活を美しくする」ために、どんな姿勢や態度が必要とされるのか。この言葉が自分の心に長居し続けるのは、それが一つの「問いかけ」になっているからだ。
歌を書き、一期一会のステージを繰り返しながら音楽生活を充実させる。方々うろつき回り、出会いと別れをくり返す中で、人との繋がりや自然のサイクルの中で生かされていることを実感する。そういった暮らしを積み重ねることは、自分なりの戦争に反対する一つのあり方だと思えた。この考えは今も変わらない。
けれど、3・11を一つの契機として、自分の中の「生活を美しくする」行為の定義に変化が表れた。もっと正確に言うと、その定義が広がった気がするのだ。
自分は、小西氏がこの言葉を引用したとき、そこには、それまでの日本における左派の社会運動やロックミュージシャンのあり方に対するアンチテーゼが含まれているように感じた(あくまでも自分がそう感じただけで、小西氏の本意は確かめていないけれど)。運動に身を投じて、声高に反対を叫んだり、明確なメッセージソングを歌うことばかりが、抵抗運動ではない。戦争を引き起こすようなメンタリティーに背を向け、音楽人、趣味人としてのセンスを磨き続ける。そういった姿勢にこだわり続けることこそが、小西氏なりの平和運動であり、抵抗運動なのだと自分は勝手に解釈している。
3・11以降の自分は、被災地を回ったり、SNSやブログを通じて社会的な発言をしたり、官邸前や国会前の集会デモに参加したり(そんな頻繁ではないけれど)、以前に比べて社会にコミットする姿勢が強まった。けれど、そういった発言や行動をする際は、大抵どこかアンビバレンスな思いがついて回った。
「反対」を表明し、行動することで敵対が深まり、互いが記号化され、それによって敵対する対象のメンタリティーに自身が近づいてゆくという矛盾や危険を感じることもあった。だからと言って、その時はデモに行くことをやめようとは思わなかった。むしろ、そういったアンビバレンスな思いを抱える人間が、デモ集会に参加することに意味があると思えた。
デモ集会に参加する日は、参加前に映画を観たり、集会後に美味しいものを食べに行ったり、いい音楽を聴いたり、美しい夕陽やお月さんを眺めたり、そうやって意識的に心のバランスをとるよう心掛けた。そうした中で、掲題した吉田健一の1文を度々思い出した。
そもそも吉田健一は、どんな思いであれらの言葉を綴ったのだろう。あの1文は吉田健一の元を離れ、一人歩きしているようにも思えた。
掲題の言葉が「吉田健一著作集ⅩⅢ」の中に収録されている「長崎」という短い随筆の中の1文だということは、ネットを通じて知った。ネットで検索すれば、その随筆の全文を読む事もできる。掲題の1文を含んだ文章を以下に引用させてもらう。
「戦争に反対する最も有効な方法が、過去の戦争のひどさを強調し、二度と再び、……と宣伝することであるとはどうしても思へない。戦災を受けた場所も、やはり人間がこれからも住む所であり、その場所も、そこに住む人達も、見せものではない。古傷は癒えなければならないのである。
戦争に反対する唯一の手段は、各自の生活を美しくして、それに執着することである。過去にいつまでもこだはつて見た所で、誰も救はれるものではない。長崎の町は、さう語つている感じがするのである。」
この文脈の流れで、掲題の1文を読むと、それまでとはまた違った印象を受ける。吉田健一は、同書に収録されている文の中で、広島の原爆ドームが取り壊されることをよしとする考えも述べているそうで、そうした点においては、自分の考えとは異なる。特に今の時代においては、先の戦争にこだわり検証することの大切さを一層強く感じている。
吉田健一と自分がイメージし実践しようとする「美しい生活」には違いがあるのだと思う。時代も育ったバックボーンも個性も違うのだから、それは当然のことだ。けれど、それぞれが時代の中で、誰かが用意した単純な物語に身を委ねることなく、丁寧に物語を紡ぎ、自分なりの「美しい生活」を模索し続けようとする姿勢において、自分と吉田健一は共通しているのではないかと想像している。
3・11以降、アンビバレンズな思いを抱え続けていた自分にとって、昨年から今年にかけてのSEALDs(シールズ)の登場と活躍は、エポックメイキングな出来事だった。学生達が、民主主義に基づく政治を求めて街に出て声を上げはじめ、それらは安保法案に反対する動きとリンクして、一つのムーブメントとなって世間一般からも注目を集めるようになった。
自分が彼らの行動に共感できたのは、それらの活動や発想が日常の生活と地続きであると感じられたからだ。音楽を愛し、恋人との時間を大切に思い、そういった日常と自由の権利を肯定し、それらを守る為のアクションであることに、頑なイデオロギーを超えてゆく社会運動としての可能性を感じた。彼らがコラボする音楽やフライヤーのデザイン、動画などから伝わるポップで洗練された印象も新鮮だった。
SEALDsを代表する奥田愛基さんが、自分と違う立場や考えの人達との議論の場に積極的に出て行く姿勢、相手を安易に記号化しないよう心掛ける態度にも共感を覚えた。
ただ、そういった彼らの姿勢は、その知名度の割には、しっかりと一般には伝わりきれなかった気がする。イデオロギーと党派性から抜け出すことのない、これまでの左派による従来の社会運動の流れとして、見られがちだったことが残念だ。
その一因として、彼らをそういうイメージに押しとどめておきたい、そうでなければ困る人達の存在が影響したように思う。いい大人達が、むきになってSEALDsを否定し、揚げ足を取り、デマをまき散らす姿は、自分にはとてもみっともなく見えた。SEALDsは嫉妬を呼び起こす存在だったのだと思う。自意識とプライドの高い人間程、その感情に向き合うことができず、本能的にSEALDsの本質から目を背けた印象がある。
主にネットを通じて拡散される、そうしたSEALDsに関するデマや中傷を信じてしまう人達、信じたがる人達が実に多いことには、暗澹たる思いを抱いた。彼らを自分よりも特権的な存在と感じて、生理的に否定した人も多かったのかもしれない。
吉田健一氏や小西氏が危惧していたのは、社会運動や政治活動への傾倒が、日常の暮らしをないがしろにしてゆくことだったのではないかと想像する。自分にとってのSEALDsは、そういった危惧を乗り越えようとする存在だった。
SEALDsの活動を知り、彼らが企画する集会デモに参加して、違和感を抱くこともあったけれど、それ以上に勇気づけられ、希望を感じることの方が多かった。彼らの存在と活動を通して、日常の生活を手放すことのない、それらと地続きの社会運動の可能性を感じられたことは、自分にとって大きかった。
以前から明言していた通り、参院選後にSEALDsが解散したことにも、納得がいった。解散によって、彼らは多くの「問いかけ」を残した。それらは未来を切り開く種だと思う。その種を多くの1人1人が受け取ることを願う。
未来は特定の大きな存在に委ねられるものではなく、この国に暮らす1人1人に託されるべきだ。それが民主主義の大切なあり方の1つだと、あらためてSEALDsが教えてくれた気がする。自分にとってのSEALDsとは、「正義」である以上に「姿勢」や「態度」であり、民主主義に対する「問いかけ」であった気がする。
自分は、吉田健一とSEALDsが残した「問いかけ」を受け取る1人でありたい。安易な結論を出すことなく、「日常の暮らし」を守るため、「生活を美しくする」ために、自分ができることを模索し、実践してゆこうと思う。
ー2016年9月29日(木)
2016年9月29日木曜日
2016年9月17日土曜日
「経て」ゆくワタシー52歳になりました
52歳になりました。
20歳の頃の自分が、50を過ぎた自分をどんな風に想像していたのかは、もうよく覚えていないけれど、多分、今とはかなり違った姿を想像していたのだろうと思います。
「えらい年齢になってしもたなあ」という戸惑いに近い思いを抱く一方で、今も落ち着かず、変化のさなかにあるらしい自分自身を楽しんでます。
「四十にして惑わず」という諺がありますが、52歳にして、そういう境地にはまだ全然達していない気がします。孔子さんは「五十にして天命を知る」とおっしゃってますが、まだ自分の天命とか運命を決めつけたくないというか、簡単に受け入れたくないような自分が存在します。
時々「リクオさんは、ぶれないですね」なんて言われることがありますが、いやいやそんなことはありません。自分の軸がないとは思わないけれど、その軸棒は、時に地殻変動や強風にさらされ、左右前後上下に揺さぶられています。
「オレって歩みが遅いのかなあ」と前々から感じていたのですが、最近増々その思いを強くしています。だとしたら「七十にして惑わず」くらいでいいのかもしれない、いや、惑い続けた挙げ句、「我」も捨てきれずに、くだばってしまうのも自分らしいかもしれんなあ、などと思ったりしてます。
まあ、70までも生きれないかもしれないけれど、だとしても、今の自分にはまだ「惑う」プロセスが必要なんじゃないか、もっと色々と「経て」いかなきゃいけないんじゃないかという気がしてるんです。そして、「経て」ゆく順序やスピードは人それぞれでいいんではないかと思うんです。
今年に入ってからの自分は、悔しい思いをする機会が多くなりました。なんだか「悔しさ」と「ときめき」の量が比例しているような感じです。これは、自分の気持ちにより正直になってトライした結果なんじゃないかと思ってます。
自分のキャパとシティ相談しながら、このトライを続けてみようと思っています。まだまだ夢を見続けるつもりです。
ロックン・ロールが苦悩から解放してくれるわけじゃない。悩んだまま踊らせるんだ。ー ピート・タウンゼント
自分が思う「ロックン・ロール」に対する答の1つがこの言葉にあります。
ちょっと大袈裟な言い方ですが、夢を見続ける作業は絶望や孤独を伴います。けれど、それらが言葉になり、メロディーとリズムに乗り、形となったとき、共感と救いが生まれ、世界が変わってゆくことを、出会った多くの人達や先人が教えてくれました。それが間違いじゃないことは、積み重ねた体験の中で確信しています。
でも、まだ道半ばって感じです。まだまだ証明したいこと、確かめたいことがあります。そんな自分の「欲」に向き合ってゆこうと思ってます。まだまだ余裕こき過ぎずに、楽しみながらあがいてゆくつもりです。
1人で見る夢はだだの夢。誰かと見る夢は現実。ー オノ・ヨーコ
とても好きな言葉です。
これからも夢に付き合ってくれたら嬉しいです。
そして、今まで夢を現実にしてくれてありがとう。
まだまだやれそうな気がしてます。「経て」ゆく様を見てもらえたら、光栄です。
ー2016年9月17日(土)
20歳の頃の自分が、50を過ぎた自分をどんな風に想像していたのかは、もうよく覚えていないけれど、多分、今とはかなり違った姿を想像していたのだろうと思います。
「えらい年齢になってしもたなあ」という戸惑いに近い思いを抱く一方で、今も落ち着かず、変化のさなかにあるらしい自分自身を楽しんでます。
「四十にして惑わず」という諺がありますが、52歳にして、そういう境地にはまだ全然達していない気がします。孔子さんは「五十にして天命を知る」とおっしゃってますが、まだ自分の天命とか運命を決めつけたくないというか、簡単に受け入れたくないような自分が存在します。
時々「リクオさんは、ぶれないですね」なんて言われることがありますが、いやいやそんなことはありません。自分の軸がないとは思わないけれど、その軸棒は、時に地殻変動や強風にさらされ、左右前後上下に揺さぶられています。
「オレって歩みが遅いのかなあ」と前々から感じていたのですが、最近増々その思いを強くしています。だとしたら「七十にして惑わず」くらいでいいのかもしれない、いや、惑い続けた挙げ句、「我」も捨てきれずに、くだばってしまうのも自分らしいかもしれんなあ、などと思ったりしてます。
まあ、70までも生きれないかもしれないけれど、だとしても、今の自分にはまだ「惑う」プロセスが必要なんじゃないか、もっと色々と「経て」いかなきゃいけないんじゃないかという気がしてるんです。そして、「経て」ゆく順序やスピードは人それぞれでいいんではないかと思うんです。
今年に入ってからの自分は、悔しい思いをする機会が多くなりました。なんだか「悔しさ」と「ときめき」の量が比例しているような感じです。これは、自分の気持ちにより正直になってトライした結果なんじゃないかと思ってます。
自分のキャパとシティ相談しながら、このトライを続けてみようと思っています。まだまだ夢を見続けるつもりです。
ロックン・ロールが苦悩から解放してくれるわけじゃない。悩んだまま踊らせるんだ。ー ピート・タウンゼント
自分が思う「ロックン・ロール」に対する答の1つがこの言葉にあります。
ちょっと大袈裟な言い方ですが、夢を見続ける作業は絶望や孤独を伴います。けれど、それらが言葉になり、メロディーとリズムに乗り、形となったとき、共感と救いが生まれ、世界が変わってゆくことを、出会った多くの人達や先人が教えてくれました。それが間違いじゃないことは、積み重ねた体験の中で確信しています。
でも、まだ道半ばって感じです。まだまだ証明したいこと、確かめたいことがあります。そんな自分の「欲」に向き合ってゆこうと思ってます。まだまだ余裕こき過ぎずに、楽しみながらあがいてゆくつもりです。
1人で見る夢はだだの夢。誰かと見る夢は現実。ー オノ・ヨーコ
とても好きな言葉です。
これからも夢に付き合ってくれたら嬉しいです。
そして、今まで夢を現実にしてくれてありがとう。
まだまだやれそうな気がしてます。「経て」ゆく様を見てもらえたら、光栄です。
ー2016年9月17日(土)
2016年8月19日金曜日
テレビが好きだ
テレビを観るのが好きだ。
と言うのが、憚れるような空気を感じたりするけれど、やっぱり好きだ。時間が許せば、もっとテレビを観ていたい。
特にお笑い番組が好きだ。「アメトーク」(テレビ朝日)と「ゴットタン」(テレビ東京)は毎週録画している(全部はみれないけれど)。「アメトーク」企画の中では特に「中学のときイケてない芸人」の回が印象深い。自分のイケてない過去をネタにすることでトラウマをこえてゆく芸人の姿に、笑いを超えた感動を覚えた。
「ゴットタン」の名物企画「芸人マジ歌選手権」「マジ歌ライブ」も毎回楽しみに観ている。芸人達が披露するオリジナルのお笑いソングとパフォーマンスのクオリティーの高さに、いつも驚かされる。番組を観ながら、いつのまにか同業者視点になって、自分はここまでお客さんを楽しませられるだろうかと自問している。
「ワールドプロレス」(テレビ朝日)は幼少の頃におばあちゃんと一緒に観始めてから、今もずっと見続けている。長い長い大河ドラマを観ているよう。今年の4月両国で行われたオカダカズチカ VS 内藤哲也のIWGPタイトル戦での内藤の突き抜けたパフォーマンスには唸った。殻を突き破った内藤の姿を見ていると、自分もまだまだチャレンジするぞという気にさせられる。
ジャンルは違えど、同じパフォーマーとして、お笑い芸人とプロレスラーから学ぶことは多い。
NHKのドキュメンタリーも時々観る。Eテレ「新・映像の世紀」は毎回見応えがあり、考えさせられる。
ニュースやワイドショーも観る。日曜の朝、TBSの「サンデージャポン」を観た後に、ネットで「日刊サイゾー」をチェックしたりして、俗人である自分を自覚する。
テレビドラマも時々観る。少し前まではNHKドラマ「トットてれび」を毎回楽しみに観ていた。役者、舞台セット、音楽、脚本がいい出会いを果たしていて、現場のワクワク感が画面を通して伝わってきた。今はNHK朝の連続テレビ小説「とと姉ちゃん」の録画が2週分程録りためられていて、早くまとめてみなきゃと思ってる。
最近、暮しの手帖編集部による「戦争中の暮しの記録」という単行本をAmazonで注文した。ドラマを通して、当時の人々の暮らしを通して戦争の姿を知ることの大切さを感じたのだ。
音楽番組も時々観る。アーティスト同士のセッションが売りのフジテレビ「FNS歌謡祭」はテレビだからこその予算と愛情のかけられた優れたエンターテインメント番組だと思う。番組を観ていると自分も出演したくなる。
それ程興味のないつもりでいたオリンピックも、テレビで試合を観戦すると、心動かされて涙腺がゆるんだりしている。卓球の愛ちゃんの涙にはぐっときたなあ。
今、自分が一番ハマってる番組は、フリースタイル(即興)のラップバトルを見せる「フリースタイルダンジョン」(テレビ朝日)だ。最も印象に残っているのは、ラスボスキャラの般若とチャレンジャー焚巻がバトルした回。暴力的なdisり合いからリスペクトとドラマが生まれる様はプロレスや格闘技にも通じる。
この番組を毎週録画して観るようになってから、YouTubeでもフリースタイル・バトルや日本のヒップホップをよくチェックするようになった。
同業者にはテレビ好きが少ない。若い人もめっきりテレビを観なくなったようだ。自分の回りにも部屋にテレビがないことを公言する人が増えた。とにかく、さまざまをスマートフォンとパソコンですませてしまえる時代だ。
「最近のテレビはくだらない」と言う声をよく聞くけれど、テレビ好きとしては必ずしもそうではないと言いたくなる。
「テレビは真実を伝えない」と言う人もいる。そう言う人の多くが「ネットで真実を知った」と言う。最近は、「テレビの嘘」よりも「ネットの嘘」に踊らされる人の方が増えている気がする。
テレビの中にもネットの中にも虚実は混在していて、それらを選り分けるのは自分自身だ。同じ事実も、見る側面によって見え方、捉え方は変化する。さまざまな視点を受け入れ、楽しむ余裕を持っていたい。
権力に対して腰が引けていたり、コンプライアンスを気にするあまり自粛が行き過ぎていたり、説明過多で、視聴者の想像力にゆだねるような番組が少なかったり、今のテレビを批判することはいくらでもできるだろう。それでもテレビの肩を持ちたくなるのは、年を追うごとにテレビの影響力が減ってゆくことに、不安に近い感情を覚えているからだ。
テレビの力が衰えるに従って、増々「公共の場」が減ってゆくような、人々の断絶が深まってゆくような気がしている。この感覚は、自分がテレビ全盛の時代に育ったことも関係しているのだろう。学校でも家庭でも、テレビはいつだって皆の共通の話題だったのだ。
かつては、主義主張を超えて、テレビを通じて日本中で共有できた情報や時代感覚が、今はかなり希薄になってしまった気がする。ネット社会に移行してから、情報量は爆発的に増えたけれど、個人が幅広い多面的な情報を得る機会はむしろ減っている気がする。
特にSNS上では、自分と主義主張、価値観の近い者同士ばかりがつながりやすく、共有する情報も一面的で偏ったものになりがちだ。しかも、情報を受け取る側は、そういう偏りや受け身であることに対する自覚がなく、ある種の万能感に陥りやすい。そういった認識や感覚が、立場や考えの違う人間同士の断絶をより深めているように思う。
できれば、テレビとネットは、これからも手を取り合って両立し続けてほしいと思う。映画も、CDも、レコードも、ライブ文化も残っていてほしい。
テレビを観て、ネットをやって、音楽を聴いて、本を読んで、曲書いて、外に出て、海を見て、ぼーっとして、風を感じ、季節を感じ、街に出て、映画を観て、ライブを観て、人と出会って、語り合って、ケンカして、仲直りして、飲んで騒いで、二日酔いになって、また部屋にこもってテレビを観て、音楽聴いて、曲書いて、ツアーに出て、ピアノ弾いて、歌って、また部屋にこもって、またツアーに出る。自分は、そんな暮らしをこれからも続けたい。
ー 2016年8月19日(金)
と言うのが、憚れるような空気を感じたりするけれど、やっぱり好きだ。時間が許せば、もっとテレビを観ていたい。
特にお笑い番組が好きだ。「アメトーク」(テレビ朝日)と「ゴットタン」(テレビ東京)は毎週録画している(全部はみれないけれど)。「アメトーク」企画の中では特に「中学のときイケてない芸人」の回が印象深い。自分のイケてない過去をネタにすることでトラウマをこえてゆく芸人の姿に、笑いを超えた感動を覚えた。
「ゴットタン」の名物企画「芸人マジ歌選手権」「マジ歌ライブ」も毎回楽しみに観ている。芸人達が披露するオリジナルのお笑いソングとパフォーマンスのクオリティーの高さに、いつも驚かされる。番組を観ながら、いつのまにか同業者視点になって、自分はここまでお客さんを楽しませられるだろうかと自問している。
「ワールドプロレス」(テレビ朝日)は幼少の頃におばあちゃんと一緒に観始めてから、今もずっと見続けている。長い長い大河ドラマを観ているよう。今年の4月両国で行われたオカダカズチカ VS 内藤哲也のIWGPタイトル戦での内藤の突き抜けたパフォーマンスには唸った。殻を突き破った内藤の姿を見ていると、自分もまだまだチャレンジするぞという気にさせられる。
ジャンルは違えど、同じパフォーマーとして、お笑い芸人とプロレスラーから学ぶことは多い。
NHKのドキュメンタリーも時々観る。Eテレ「新・映像の世紀」は毎回見応えがあり、考えさせられる。
ニュースやワイドショーも観る。日曜の朝、TBSの「サンデージャポン」を観た後に、ネットで「日刊サイゾー」をチェックしたりして、俗人である自分を自覚する。
テレビドラマも時々観る。少し前まではNHKドラマ「トットてれび」を毎回楽しみに観ていた。役者、舞台セット、音楽、脚本がいい出会いを果たしていて、現場のワクワク感が画面を通して伝わってきた。今はNHK朝の連続テレビ小説「とと姉ちゃん」の録画が2週分程録りためられていて、早くまとめてみなきゃと思ってる。
最近、暮しの手帖編集部による「戦争中の暮しの記録」という単行本をAmazonで注文した。ドラマを通して、当時の人々の暮らしを通して戦争の姿を知ることの大切さを感じたのだ。
音楽番組も時々観る。アーティスト同士のセッションが売りのフジテレビ「FNS歌謡祭」はテレビだからこその予算と愛情のかけられた優れたエンターテインメント番組だと思う。番組を観ていると自分も出演したくなる。
それ程興味のないつもりでいたオリンピックも、テレビで試合を観戦すると、心動かされて涙腺がゆるんだりしている。卓球の愛ちゃんの涙にはぐっときたなあ。
今、自分が一番ハマってる番組は、フリースタイル(即興)のラップバトルを見せる「フリースタイルダンジョン」(テレビ朝日)だ。最も印象に残っているのは、ラスボスキャラの般若とチャレンジャー焚巻がバトルした回。暴力的なdisり合いからリスペクトとドラマが生まれる様はプロレスや格闘技にも通じる。
この番組を毎週録画して観るようになってから、YouTubeでもフリースタイル・バトルや日本のヒップホップをよくチェックするようになった。
同業者にはテレビ好きが少ない。若い人もめっきりテレビを観なくなったようだ。自分の回りにも部屋にテレビがないことを公言する人が増えた。とにかく、さまざまをスマートフォンとパソコンですませてしまえる時代だ。
「最近のテレビはくだらない」と言う声をよく聞くけれど、テレビ好きとしては必ずしもそうではないと言いたくなる。
「テレビは真実を伝えない」と言う人もいる。そう言う人の多くが「ネットで真実を知った」と言う。最近は、「テレビの嘘」よりも「ネットの嘘」に踊らされる人の方が増えている気がする。
テレビの中にもネットの中にも虚実は混在していて、それらを選り分けるのは自分自身だ。同じ事実も、見る側面によって見え方、捉え方は変化する。さまざまな視点を受け入れ、楽しむ余裕を持っていたい。
権力に対して腰が引けていたり、コンプライアンスを気にするあまり自粛が行き過ぎていたり、説明過多で、視聴者の想像力にゆだねるような番組が少なかったり、今のテレビを批判することはいくらでもできるだろう。それでもテレビの肩を持ちたくなるのは、年を追うごとにテレビの影響力が減ってゆくことに、不安に近い感情を覚えているからだ。
テレビの力が衰えるに従って、増々「公共の場」が減ってゆくような、人々の断絶が深まってゆくような気がしている。この感覚は、自分がテレビ全盛の時代に育ったことも関係しているのだろう。学校でも家庭でも、テレビはいつだって皆の共通の話題だったのだ。
かつては、主義主張を超えて、テレビを通じて日本中で共有できた情報や時代感覚が、今はかなり希薄になってしまった気がする。ネット社会に移行してから、情報量は爆発的に増えたけれど、個人が幅広い多面的な情報を得る機会はむしろ減っている気がする。
特にSNS上では、自分と主義主張、価値観の近い者同士ばかりがつながりやすく、共有する情報も一面的で偏ったものになりがちだ。しかも、情報を受け取る側は、そういう偏りや受け身であることに対する自覚がなく、ある種の万能感に陥りやすい。そういった認識や感覚が、立場や考えの違う人間同士の断絶をより深めているように思う。
できれば、テレビとネットは、これからも手を取り合って両立し続けてほしいと思う。映画も、CDも、レコードも、ライブ文化も残っていてほしい。
テレビを観て、ネットをやって、音楽を聴いて、本を読んで、曲書いて、外に出て、海を見て、ぼーっとして、風を感じ、季節を感じ、街に出て、映画を観て、ライブを観て、人と出会って、語り合って、ケンカして、仲直りして、飲んで騒いで、二日酔いになって、また部屋にこもってテレビを観て、音楽聴いて、曲書いて、ツアーに出て、ピアノ弾いて、歌って、また部屋にこもって、またツアーに出る。自分は、そんな暮らしをこれからも続けたい。
ー 2016年8月19日(金)
2016年8月2日火曜日
冷静に恐れる ー ショッキングだった2つのニュースについて
この1週間で特にショッキングだったニュースが2つある。
1つは、今回の都知事選で、特定の民族に対するヘイトデモとヘイトスピーチを繰り返してきた団体の元代表者が10万を超える票を集めたことだ。団体の主張の背後にこれだけの数の市民が列をなしていると想像すると、何ともやりきれず、恐ろしさを感じる。多分、この流れは日本だけでなく世界的なもので、残念ながら、こういった排外主義はこれからもまだ広がり続けてゆくのだろう。
自分は今まで、ブログやSNS上で、不安を煽るような物言いを避けるよう心掛けてきたつもりだけれど、都知事選でこのような排外主義者が一定の支持を得たことや、トランプ氏がアメリカの大統領になりかねない状況に対しては、慣れることなく冷静に恐れるべきではないかと思う。自分の感覚では、もう1線を越えてしまっている。これは思想やイデオロギー以前の問題だ。
今年に入って、日本のメディアにもしょっちゅう登場するようになったトランプ氏を見続けていると、自分が次第に”トランプ慣れ”していることに気づく。彼に対する恐れが以前よりも薄まっているように感じるのだ。
特にテレビメディアは、意図的で有る無しに関わらず、彼のチャーミングさを表出してゆく。これまでの独裁者達がそうであったように、彼にも人を惹き付ける力があることは否定できない。だから怖い。
ああいう暴言やレイシズム、排外主義的物言いに、こちらが慣れてしまっちゃいけない。冷静に恐れるべきだと思う。
そして、今の日本を見渡せば、トランプ氏と同じように、暴言を吐きながら、レイシズム、セクシズム、排外主義、デマをまき散らす煽動家が幾人も存在する。彼らの勇ましく感情的な暴言に溜飲を下げているのは、自分と同じ一般民だ。ああいった言動が”本音”として受け入れられ、それが”普通”になってしまうことが本当に怖い。
もう1つのショッキングだったニュースは、相模原で起こった障がい者大量殺害事件だ。事件そのものに対する衝撃はもちろんのこと、犯人の考えに対して、ネット上で共感を寄せる者が多数存在することにもショックを受けた。
言葉にするのもおぞましいけれど、“障がい者抹殺思想”への同調を受け入れるような空気が、ごく1部にしても存在するという状況には、暗澹たる気分だ。
ホント当たり前のことなんだけれど、障がい者の1人1人が個別の個性を持った人間であり、彼ら1人1人を必要とし愛する家族があり、人間はそういった多様性の中で支え合って生きてゆく存在なのだという実感が、人々の中から失われて始めているのかもしれない。そのような弱い立場への不寛容な空気が犯行の背中を後押ししたのではないかとも想像してしまう。
こうした”弱者排除”と”排外主義”の傾向は、共通した背景を持っているように思える。追い込まれ疎外された者が、さらに弱い立場に攻撃を向けるという構図にも、やりきれなさを感じる。経済合理性やら自己責任やら優生思想やらを鵜呑みして、一時の万能感にひたることで、結果的に自分達の首を絞めている。
こんなふうに余裕を失いはじめた社会の中で、綺麗事ともとられてしまう自分の言葉がどこまで通じるのだろうかと考えさせられる。
「迷惑かけてありがとう」たこ八郎
「パラダイス」という曲をライブで歌うときに、エンディングの語りの部分で必ず引用する言葉だ。
色んな個性があって、それぞれに足りないところがあって、補い合って、迷惑かけたり、かけられたりしながら、互いに「ありがとう」って思える世の中の方がいいに決まっている。
ー 2016年8月2日(火)
1つは、今回の都知事選で、特定の民族に対するヘイトデモとヘイトスピーチを繰り返してきた団体の元代表者が10万を超える票を集めたことだ。団体の主張の背後にこれだけの数の市民が列をなしていると想像すると、何ともやりきれず、恐ろしさを感じる。多分、この流れは日本だけでなく世界的なもので、残念ながら、こういった排外主義はこれからもまだ広がり続けてゆくのだろう。
自分は今まで、ブログやSNS上で、不安を煽るような物言いを避けるよう心掛けてきたつもりだけれど、都知事選でこのような排外主義者が一定の支持を得たことや、トランプ氏がアメリカの大統領になりかねない状況に対しては、慣れることなく冷静に恐れるべきではないかと思う。自分の感覚では、もう1線を越えてしまっている。これは思想やイデオロギー以前の問題だ。
今年に入って、日本のメディアにもしょっちゅう登場するようになったトランプ氏を見続けていると、自分が次第に”トランプ慣れ”していることに気づく。彼に対する恐れが以前よりも薄まっているように感じるのだ。
特にテレビメディアは、意図的で有る無しに関わらず、彼のチャーミングさを表出してゆく。これまでの独裁者達がそうであったように、彼にも人を惹き付ける力があることは否定できない。だから怖い。
ああいう暴言やレイシズム、排外主義的物言いに、こちらが慣れてしまっちゃいけない。冷静に恐れるべきだと思う。
そして、今の日本を見渡せば、トランプ氏と同じように、暴言を吐きながら、レイシズム、セクシズム、排外主義、デマをまき散らす煽動家が幾人も存在する。彼らの勇ましく感情的な暴言に溜飲を下げているのは、自分と同じ一般民だ。ああいった言動が”本音”として受け入れられ、それが”普通”になってしまうことが本当に怖い。
もう1つのショッキングだったニュースは、相模原で起こった障がい者大量殺害事件だ。事件そのものに対する衝撃はもちろんのこと、犯人の考えに対して、ネット上で共感を寄せる者が多数存在することにもショックを受けた。
言葉にするのもおぞましいけれど、“障がい者抹殺思想”への同調を受け入れるような空気が、ごく1部にしても存在するという状況には、暗澹たる気分だ。
ホント当たり前のことなんだけれど、障がい者の1人1人が個別の個性を持った人間であり、彼ら1人1人を必要とし愛する家族があり、人間はそういった多様性の中で支え合って生きてゆく存在なのだという実感が、人々の中から失われて始めているのかもしれない。そのような弱い立場への不寛容な空気が犯行の背中を後押ししたのではないかとも想像してしまう。
こうした”弱者排除”と”排外主義”の傾向は、共通した背景を持っているように思える。追い込まれ疎外された者が、さらに弱い立場に攻撃を向けるという構図にも、やりきれなさを感じる。経済合理性やら自己責任やら優生思想やらを鵜呑みして、一時の万能感にひたることで、結果的に自分達の首を絞めている。
こんなふうに余裕を失いはじめた社会の中で、綺麗事ともとられてしまう自分の言葉がどこまで通じるのだろうかと考えさせられる。
「迷惑かけてありがとう」たこ八郎
「パラダイス」という曲をライブで歌うときに、エンディングの語りの部分で必ず引用する言葉だ。
色んな個性があって、それぞれに足りないところがあって、補い合って、迷惑かけたり、かけられたりしながら、互いに「ありがとう」って思える世の中の方がいいに決まっている。
ー 2016年8月2日(火)
2016年7月27日水曜日
だんだんよくする
今月10日(日)に、アルバム「Hello!」発売記念スペシャルライブの最終公演、東京下北沢GARDEN公演を終え、同日に行われた参議院選投票の結果を受け止め、少し身体を休めて、またソロツアーに出て、今週月曜にツアーから戻って、久し振りに曲作りにも取りかかったりしていたら、もう月末。週末には都知事選挙かあ。でも、やっと一息つけた感じなので、近頃を振り返っておこうとブログをアップすることにした。
10日のGARDEN公演については、ブッキングが決まった時点から、この日をひとまずの総決算にしようとの思いがあった。アルバム制作から始まった流れを、これからも続けていくのかどうか、10日のライブの内容だけでなく、そこに至るまでの現実的な結果を受けて、判断を下さなくちゃいけないとも考えていた。
取りあえず、発売記念スペシャルライブと銘打ったバンドスタイルでの名古屋、大阪、東京3公演を終えてホッとした。特に最終公演の下北沢GARDEN公演では、多く人達との関わりの中で、今までにない場を作り、一歩踏み出したパフォーマンスを展開することができたという手応えがあった。現時点で自分が見せることの出来るベストなステージだったと思う。
集まってくれたお客さん、関係者の皆さんからのダイレクトなリアクションには多いに救われた。確実に何かが変わり始めているし、自分自身が一歩踏み出せたことを実感できた。
ガーデン公演のステージを終えた後に、何人もの知人が楽屋を尋ねてくれたのだけれど、その中の1人に業界の大先輩である伊藤銀次さんがいた。
銀次さんからは、まずこのようなありがたい言葉をいただいた。
「ついにやったね。『Hello!』の完成を経て今日エンターテイナーとしてのリクオが確立したと思う」
その後にはこんな言葉が続いた。
「今回のアルバムだけでは期待する結果は出ないかもしれなけれど、あと2枚、がんばってこの方向で作品をつくり続ければ、結果がついてくると思う。ウルフルズだって結構時間がかかったんだよ(銀次さんはブレイク前からプロデューサーとして長くウルフルズに関わり続けていたのだ)」
銀次さんの言葉を受けて、「あと2枚、この感じでアルバムつくるのは大変だなあ」と思いつつも、嬉しくて感激して、少しウルッとしそうになったくらいだ。銀次さんはこの日のライブレポートとアルバム「Hello!」の紹介を自身のFacebookとブログにもアップしてくれていて、その文章にもとても勇気づけられた。
https://www.facebook.com/ginji.ito/posts/959343164185283
http://ameblo.jp/ginji-ito/entry-12171119125.html
Photo by 小山雅嗣
GAERDEN公演と参院選挙を終えて、劇的な状況の変化は起きなかった。けれど今、そのことを悲観してはいない。
参院選挙の結果と戦後4番目の投票率に低さには、やはりがっかりしたけれど、絶望はしなかった。もう少し正確に言うと、表立った結果は絶望的にも思えたけれど、選挙期間前からのさまざまな動きには希望を見いだすことができたし、それらの動きはある一定の成果をもたらした気がしている。そういった動きが各地で繋がり、一気にではなく次第にひろがってゆけばいいのではと思う。
自分は元々、極端な変化や革命を求めない保守的な一面を持った人間で、特に社会情勢において、劇的な状況の変化は、危険を伴うという意識が強いのだ。
少し一息ついてみて、アルバムをリリースしてからの自分は、結果を早急に求めて焦り過ぎていたのかなと思う。
7月10日のガーデン公演の後に、色々と判断を下そうと考えていたのだけれど、ライブを終え、これまでの状況を受けての自分の気持ちは、想像していたものとは違っていた。
少しずつ何かが変わり始めていることを実感して、今の気持ちは前向きだ。まだ始まったばかり。これからもこの歩みを懲りずに続けて、だんだんよくしていこうと思う。そう言えばオレ、「僕らのパレード」(共作:丸谷マナブ)で、そんなことを歌ってたんやよな。
今回のアルバム「Hello!」は、曲作りの段階から、聴いてくれた人達が歌に自身を重ね合わせてくれることを意識していたのだけれど、完成してみたら、パーソナルな要素も強く含んだ作品になっていた。アルバムを貫く「再生」というテーマは、自分自身のテーマでもあった。ポップで開かれた作品を作ろうと目指していたら、今の自分を投影した正直な内容になった気がする。
こういう作品をつくる事ができて、今自分がこういう形で活動を続けていられるのは、関わってくれるミュージシャンとスタッフ、応援してくれるお客さん、地方を含めた関係者の皆さんの存在があってこそだ。
自分は人と関わることが好きなんだなと思う。元々好きと言うよりは、音楽活動を積み重ねることで、孤独な作業を経て、人と関わり合い、互いを生かし合い、何かを生み出すプロセスにやりがいを感じるようになったのだ。
50歳を過ぎてからでも、面倒を引き受けて、色んな人達とのかかわり合いを続けながら、ともにときめき、いい夢を共有したいと思う。
だんだんよくしていこう。自分自身も、自分を取り巻く世界も。すべては繋がっている。
みなさん、これからもよろしくです。
ー2012年7月27日(水)
10日のGARDEN公演については、ブッキングが決まった時点から、この日をひとまずの総決算にしようとの思いがあった。アルバム制作から始まった流れを、これからも続けていくのかどうか、10日のライブの内容だけでなく、そこに至るまでの現実的な結果を受けて、判断を下さなくちゃいけないとも考えていた。
取りあえず、発売記念スペシャルライブと銘打ったバンドスタイルでの名古屋、大阪、東京3公演を終えてホッとした。特に最終公演の下北沢GARDEN公演では、多く人達との関わりの中で、今までにない場を作り、一歩踏み出したパフォーマンスを展開することができたという手応えがあった。現時点で自分が見せることの出来るベストなステージだったと思う。
集まってくれたお客さん、関係者の皆さんからのダイレクトなリアクションには多いに救われた。確実に何かが変わり始めているし、自分自身が一歩踏み出せたことを実感できた。
Photo by 小山雅嗣
銀次さんからは、まずこのようなありがたい言葉をいただいた。
「ついにやったね。『Hello!』の完成を経て今日エンターテイナーとしてのリクオが確立したと思う」
その後にはこんな言葉が続いた。
「今回のアルバムだけでは期待する結果は出ないかもしれなけれど、あと2枚、がんばってこの方向で作品をつくり続ければ、結果がついてくると思う。ウルフルズだって結構時間がかかったんだよ(銀次さんはブレイク前からプロデューサーとして長くウルフルズに関わり続けていたのだ)」
銀次さんの言葉を受けて、「あと2枚、この感じでアルバムつくるのは大変だなあ」と思いつつも、嬉しくて感激して、少しウルッとしそうになったくらいだ。銀次さんはこの日のライブレポートとアルバム「Hello!」の紹介を自身のFacebookとブログにもアップしてくれていて、その文章にもとても勇気づけられた。
https://www.facebook.com/ginji.ito/posts/959343164185283
http://ameblo.jp/ginji-ito/entry-12171119125.html
Photo by 小山雅嗣
GAERDEN公演と参院選挙を終えて、劇的な状況の変化は起きなかった。けれど今、そのことを悲観してはいない。
参院選挙の結果と戦後4番目の投票率に低さには、やはりがっかりしたけれど、絶望はしなかった。もう少し正確に言うと、表立った結果は絶望的にも思えたけれど、選挙期間前からのさまざまな動きには希望を見いだすことができたし、それらの動きはある一定の成果をもたらした気がしている。そういった動きが各地で繋がり、一気にではなく次第にひろがってゆけばいいのではと思う。
自分は元々、極端な変化や革命を求めない保守的な一面を持った人間で、特に社会情勢において、劇的な状況の変化は、危険を伴うという意識が強いのだ。
少し一息ついてみて、アルバムをリリースしてからの自分は、結果を早急に求めて焦り過ぎていたのかなと思う。
7月10日のガーデン公演の後に、色々と判断を下そうと考えていたのだけれど、ライブを終え、これまでの状況を受けての自分の気持ちは、想像していたものとは違っていた。
今回のアルバム「Hello!」は、曲作りの段階から、聴いてくれた人達が歌に自身を重ね合わせてくれることを意識していたのだけれど、完成してみたら、パーソナルな要素も強く含んだ作品になっていた。アルバムを貫く「再生」というテーマは、自分自身のテーマでもあった。ポップで開かれた作品を作ろうと目指していたら、今の自分を投影した正直な内容になった気がする。
こういう作品をつくる事ができて、今自分がこういう形で活動を続けていられるのは、関わってくれるミュージシャンとスタッフ、応援してくれるお客さん、地方を含めた関係者の皆さんの存在があってこそだ。
自分は人と関わることが好きなんだなと思う。元々好きと言うよりは、音楽活動を積み重ねることで、孤独な作業を経て、人と関わり合い、互いを生かし合い、何かを生み出すプロセスにやりがいを感じるようになったのだ。
50歳を過ぎてからでも、面倒を引き受けて、色んな人達とのかかわり合いを続けながら、ともにときめき、いい夢を共有したいと思う。
だんだんよくしていこう。自分自身も、自分を取り巻く世界も。すべては繋がっている。
みなさん、これからもよろしくです。
ー2012年7月27日(水)
Photo by 小山琢也
2016年7月21日木曜日
白黒を反転させないグラデーション ー 森達也監督「FAKE」を観た
公開前から気になっていた森達也監督のドキュメンタリー映画「FAKE」を、やっと観た。
語りたいことが一杯。いや、語りたい以上に語り合いたい、誰かと感想や意見を交わし合いたくなる映画だった。
噂のエンディング12分間は、期待以上だった。白黒を反転させるのではなく、あえてグラデーションを残す結末が、大きな余韻を残す。映画全体が、2極化に走る社会に対する強烈な問題提起として成り立っていて、安易な結論を許してくれない。もやもやさせされる。でも、そこがいい。さまざまな解釈を許す自由と楽しさが、この作品にはある。
映画が進むにつれて、佐村河内氏と寄り添い合う奥さんの存在が次第に大きくなってゆくのも印象に残った。この映画を2人の愛の物語として観ることもできる。あるいは、愛と信頼に支えられた佐村河内氏の再生の物語と捉えることも可能だ。
ただ、多くの感動を残しながらも、単純に感動のまま終わらせてくれないのが、この映画の真骨頂。
「さまざまな視点と解釈があるからこそ、この世界は自由で豊かで素晴しい」
映画パンフレットの中で、監督の森達也氏がこんな言葉を寄せている。
この態度は、当事者意識に欠けた厭世的態度として否定的に使われることもある「価値相対主義」とは違う、もっとリアルで丁寧、謙虚な感覚に基づいたものだと思う。
自分も、グレイゾーンを行き来し、逡巡を繰り返しながら、少しずつでも前に進んでゆきたい。この映画を観て、あらためてそう思った。
ー 2016年7月21日(木)
語りたいことが一杯。いや、語りたい以上に語り合いたい、誰かと感想や意見を交わし合いたくなる映画だった。
噂のエンディング12分間は、期待以上だった。白黒を反転させるのではなく、あえてグラデーションを残す結末が、大きな余韻を残す。映画全体が、2極化に走る社会に対する強烈な問題提起として成り立っていて、安易な結論を許してくれない。もやもやさせされる。でも、そこがいい。さまざまな解釈を許す自由と楽しさが、この作品にはある。
映画が進むにつれて、佐村河内氏と寄り添い合う奥さんの存在が次第に大きくなってゆくのも印象に残った。この映画を2人の愛の物語として観ることもできる。あるいは、愛と信頼に支えられた佐村河内氏の再生の物語と捉えることも可能だ。
ただ、多くの感動を残しながらも、単純に感動のまま終わらせてくれないのが、この映画の真骨頂。
「さまざまな視点と解釈があるからこそ、この世界は自由で豊かで素晴しい」
映画パンフレットの中で、監督の森達也氏がこんな言葉を寄せている。
この態度は、当事者意識に欠けた厭世的態度として否定的に使われることもある「価値相対主義」とは違う、もっとリアルで丁寧、謙虚な感覚に基づいたものだと思う。
自分も、グレイゾーンを行き来し、逡巡を繰り返しながら、少しずつでも前に進んでゆきたい。この映画を観て、あらためてそう思った。
ー 2016年7月21日(木)
2016年7月8日金曜日
光は闇の中に ー 参院選とライブのこと
アルバム「Hello!」発売を記念したリクオ with HOBO HOUSE BANDによるスペシャルライブ・ツアーは、先週末の名古屋、大阪公演を終え、明後日7月10日(日)下北沢・GARDENで最終公演を迎える。その日は参院選の投票日でもある。なんだか自分の置かれている状況と参院選の状況がどこかでリンクしている気がして、ライブと投票日が重なることを、自分の中で勝手に意味付けたりしている。
「Hello!」という作品を作ってからは、自主レーベルを立ち上げ、今まで自分を知らなかった人にも音を届けたい、何とか状況を変えていこうと、元気にもがき続ける日々が続いた。
まだまだやり残したことはあるけれど、これまで現実に向き合いながら正直にやってきたということに関しては納得している。自分の欲や現実に向き合う程、無力さや限界を感じると同時に、可能性や希望も見えてくる。つまり、やってみないとわからないということだ。
時には、色々正直にぶっちゃけてる自分がかっこ悪くも思えるけれど、もう一人の自分はそういう姿をおもしろがっている。
51歳になって「あんな変なメガネをかけて、へんな格好でミュージックビデオ撮って、どうなん?」みたいなことを、人から言われるのも、ありだと思ってる。中途半端にやるよりは、振り切れたほうが面白い。すべてはネタになればOKだ。
参院選は、自分の期待する流れと照らし合わせると厳しい状況だ。
いくつものメディアが、今回の参院選で改憲勢力が3分の2議席に迫る勢いだと伝えている。3分の2に達するということは、自民党の改憲草案に基づいた日本国憲法改正への道が開かれる、戦後日本が一大転換期を迎えるということだ。
立憲主義に基づき、国家の行動を制約するために存在していた憲法が、自民党の改憲草案では、国家が国民に義務を求め
る要素が強くなっている。憲法の宛名が国家よりも国民の側への比重を強くしているのだ。
学校でも教えられた現憲法の根幹をなす三原則(国民主権、基本的人権の尊重、平和主義)の堅持が、改憲草案ではゆるめられている印象を受ける。3分の2の議席獲得後に政権がまず着手すると言われている「災害時の緊急事態条項の新設」の本質は戒厳令であり、独裁を許容し、国民の権利を抑圧するものではないかとの危惧もある。
原発の問題が、ほとんど選挙の争点にならないことにも強い違和感がある。忘れちゃいけないこともあるはずだ。
多くの無関心が、より時代を極端な方向に向かわせようとしている気がする。時には自分自身も、その無関心の側にいるので、えらそうに言える立場でもないのだけれど、さすがにこの状況はやばいなあと思う。
やっぱり現実にも向き合わないと、前へ行けない、希望が見えてこないというのが今の実感だ。さらに厳しい状況になる前に、世の中がもっと極端に流される前に、ちゃんと闇の中で目を凝らしたい。個を確立した上で人と繋がり、自分達で楽しいことや希望を見いだしたいと思う。う〜ん、ちょっと固すぎるかあ。
ここではないどこかではなく、たどりついた場所や与えられた場所をパラダイスにする。瞬間に全てを捧げる。その積み重ねの中で、状況を変えて行く。その基本姿勢に変わりはない。自分達で楽しむ術は、それなりに手に入れたつもりだけれど、今はそれだけじゃダメなんじゃないかって気がしている。自分を取り巻く状況、社会を取り巻く状況、どちらにも危機感があり、その2つはつながっている。こっち側で勝手に楽しみに続けることを、許してもらえない状況が迫っているように感じるのだ。
最近、3.11東日本大震災、福島第一原発事故直後の暗がりの中で感じていたことを、またよく思い出すようになった。
「光は闇の中に」
ずっと前から自分が歌い続けてきたフレーズが、あの状況の中でとてもリアルに響いたのを覚えている。不安と絶望的な気分の中で、どうにか希望を探し続けようとした日々が、自分のあらたなスタートラインとなったはずだった。まじめさとばかばかしさのバランスを取りながら、あのときの気持ちを忘れずにいたいと思う。
長野、高岡、名古屋、大阪とHOBO HOUSE BANDの面々とともにツアーしてきて、自分はホント音楽と人に救われているのだなあと実感している。音楽を仕事にすることで、当然しんどい思いをすることもあるのだけれど、瞬間、瞬間を音楽に捧げ続け、皆とエネルギーを交感し合うことで、すべてが報われてゆく感動を幾度となく味合わせてもらっている。この感覚を持ち続けることができれば、これからもいろんな現実を乗り越えてゆけると思う。
7月10日(日)下北沢GARDENのステージでは、HOBO HOUSE BANDのメンバー、スタッフ、お客さん、アルバム制作も含めて関わってくれるすべての人達の思いを受け取ってパフォーマンスするつもりです。その場にいられる幸せを噛み締めながら、皆さんと最高の一期一会を過ごしたいと思います。
お待ちしています。
●7/10(日)下北沢・GARDEN 03-3410-3431
~リクオ・ソロアルバム「Hello!」発売記念スペシャル・ライブ~
【出演】リクオ with HOBO HOUSE BAND
Dr.kyOn(キーボード&ギター)/椎野恭一(ドラム)/寺岡信芳(ベース)/宮下広輔(ペダルスティール)/真城めぐみ(コーラス)/橋本歩(チェロ)/阿部美緒(ヴァイオリン)
前売り¥4500 当日¥5000(1DRINK別途) 開場17:30 開演18:00
メール予約フォーマット:http://goo.gl/forms/Q7Y0pSdCYs
参院選投票の証明書か投票場で撮った写真を提示すれば、前売り扱いで入場できます。
■リクオ・アルバム「Hello!」特設サイト→ http://www.rikuo.net/hello/
「Hello!」という作品を作ってからは、自主レーベルを立ち上げ、今まで自分を知らなかった人にも音を届けたい、何とか状況を変えていこうと、元気にもがき続ける日々が続いた。
まだまだやり残したことはあるけれど、これまで現実に向き合いながら正直にやってきたということに関しては納得している。自分の欲や現実に向き合う程、無力さや限界を感じると同時に、可能性や希望も見えてくる。つまり、やってみないとわからないということだ。
時には、色々正直にぶっちゃけてる自分がかっこ悪くも思えるけれど、もう一人の自分はそういう姿をおもしろがっている。
51歳になって「あんな変なメガネをかけて、へんな格好でミュージックビデオ撮って、どうなん?」みたいなことを、人から言われるのも、ありだと思ってる。中途半端にやるよりは、振り切れたほうが面白い。すべてはネタになればOKだ。
参院選は、自分の期待する流れと照らし合わせると厳しい状況だ。
いくつものメディアが、今回の参院選で改憲勢力が3分の2議席に迫る勢いだと伝えている。3分の2に達するということは、自民党の改憲草案に基づいた日本国憲法改正への道が開かれる、戦後日本が一大転換期を迎えるということだ。
立憲主義に基づき、国家の行動を制約するために存在していた憲法が、自民党の改憲草案では、国家が国民に義務を求め
る要素が強くなっている。憲法の宛名が国家よりも国民の側への比重を強くしているのだ。
学校でも教えられた現憲法の根幹をなす三原則(国民主権、基本的人権の尊重、平和主義)の堅持が、改憲草案ではゆるめられている印象を受ける。3分の2の議席獲得後に政権がまず着手すると言われている「災害時の緊急事態条項の新設」の本質は戒厳令であり、独裁を許容し、国民の権利を抑圧するものではないかとの危惧もある。
原発の問題が、ほとんど選挙の争点にならないことにも強い違和感がある。忘れちゃいけないこともあるはずだ。
多くの無関心が、より時代を極端な方向に向かわせようとしている気がする。時には自分自身も、その無関心の側にいるので、えらそうに言える立場でもないのだけれど、さすがにこの状況はやばいなあと思う。
やっぱり現実にも向き合わないと、前へ行けない、希望が見えてこないというのが今の実感だ。さらに厳しい状況になる前に、世の中がもっと極端に流される前に、ちゃんと闇の中で目を凝らしたい。個を確立した上で人と繋がり、自分達で楽しいことや希望を見いだしたいと思う。う〜ん、ちょっと固すぎるかあ。
ここではないどこかではなく、たどりついた場所や与えられた場所をパラダイスにする。瞬間に全てを捧げる。その積み重ねの中で、状況を変えて行く。その基本姿勢に変わりはない。自分達で楽しむ術は、それなりに手に入れたつもりだけれど、今はそれだけじゃダメなんじゃないかって気がしている。自分を取り巻く状況、社会を取り巻く状況、どちらにも危機感があり、その2つはつながっている。こっち側で勝手に楽しみに続けることを、許してもらえない状況が迫っているように感じるのだ。
最近、3.11東日本大震災、福島第一原発事故直後の暗がりの中で感じていたことを、またよく思い出すようになった。
「光は闇の中に」
ずっと前から自分が歌い続けてきたフレーズが、あの状況の中でとてもリアルに響いたのを覚えている。不安と絶望的な気分の中で、どうにか希望を探し続けようとした日々が、自分のあらたなスタートラインとなったはずだった。まじめさとばかばかしさのバランスを取りながら、あのときの気持ちを忘れずにいたいと思う。
長野、高岡、名古屋、大阪とHOBO HOUSE BANDの面々とともにツアーしてきて、自分はホント音楽と人に救われているのだなあと実感している。音楽を仕事にすることで、当然しんどい思いをすることもあるのだけれど、瞬間、瞬間を音楽に捧げ続け、皆とエネルギーを交感し合うことで、すべてが報われてゆく感動を幾度となく味合わせてもらっている。この感覚を持ち続けることができれば、これからもいろんな現実を乗り越えてゆけると思う。
7月10日(日)下北沢GARDENのステージでは、HOBO HOUSE BANDのメンバー、スタッフ、お客さん、アルバム制作も含めて関わってくれるすべての人達の思いを受け取ってパフォーマンスするつもりです。その場にいられる幸せを噛み締めながら、皆さんと最高の一期一会を過ごしたいと思います。
お待ちしています。
●7/10(日)下北沢・GARDEN 03-3410-3431
~リクオ・ソロアルバム「Hello!」発売記念スペシャル・ライブ~
【出演】リクオ with HOBO HOUSE BAND
Dr.kyOn(キーボード&ギター)/椎野恭一(ドラム)/寺岡信芳(ベース)/宮下広輔(ペダルスティール)/真城めぐみ(コーラス)/橋本歩(チェロ)/阿部美緒(ヴァイオリン)
前売り¥4500 当日¥5000(1DRINK別途) 開場17:30 開演18:00
メール予約フォーマット:http://goo.gl/forms/Q7Y0pSdCYs
参院選投票の証明書か投票場で撮った写真を提示すれば、前売り扱いで入場できます。
■リクオ・アルバム「Hello!」特設サイト→ http://www.rikuo.net/hello/
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