2014年8月28日木曜日

「ネトウヨ」「サヨク」とレッテル貼りされる2人による議論 

以下は、自分がツイッターと同期させてFACEBOOKに投稿した記事と文章に対するHさんのコメント書き込みをきっかけに始まった、Hさんと自分によるFACEBOOK上での議論です。Hさんは、自分が社会的な記事を掲載したり、社会にコミットするような発言をした時に、よくコメント欄に書き込みをしてくる音楽業界の同業者です(実際にお会いしたことはありませんが)。
自分はHさんから「サヨク」とレッテル貼りされることがあり、Hさんの方は、おそらく「ネトウヨ」とレッテル貼りされることを自覚しておられるようなので、このようなブログタイトルをつけました。ちなみにオレは自分が左翼だとは思っていません。特定のイデオロギーから発言しているという自覚もありません。おそらくHさんも自分のことを「ネトウヨ」だとは思っていないのではと想像しています。
正直、この議論が対話として成り立っているという自信はありませんが、対話の道筋に至る何かのきっかけになればとの思いがあります。FACEBOOK上でのHさんとの議論は平行線をたどることが多いのですが、ぎりぎりのところで互いを記号化しないという信頼があることで、この議論が成り立っていると思っています。
今回のHさんとの議論を通して、あたらめて気づいたことは、特に3.11以降、自分がまず大切に考えてきたのは、「理屈」や「思想」よりも、他者との「共感」を試みようとする「態度」であるということです。そして、その「態度」を常に維持することの難しさも感じています。
長くなりますが、よければお付き合い下さい。

※このブログをアップした後もコメント欄でのHさんとの議論が続いたので、そん部分を8月30日に加筆しました。

まずは、議論のきっかけになった8月26日の自分の投稿記事と、それに添えらえた文章です。

関東大震災の朝鮮人虐殺から今のレイシズム(民族・人種差別)が見えてくる<加藤直樹氏インタビュー>
http://www.asiapress.org/apn/archives/2014/04/24170846.php
広島の土砂災害でも、ツイッター上で在日の人達や中国人が空き巣狙いをしているといったひどいデマが流れてる。


以下からが、この投稿を受けてのHさんコメントから始まった2人の議論です。

●Hさん
震災発生後、混乱に乗じた一部朝鮮人による凶悪犯罪、暴動などが発生したが、こうした事件情報は混乱期にあって流言、デマなども生み出し、過度に警戒した民衆によって朝鮮人が殺害されるなど、朝鮮人側にも大きな被害をもたらしたわけです。
混乱に乗じて朝鮮人が凶悪犯罪を繰り返した戦後の「朝鮮進駐軍」もご参考下さい。
そして現代でも在日韓国朝鮮人の犯罪率が極めて高いという事実も。
いろいろな方向からの見方があることは忘れてはいけません。
それらの事実を互いに理解した上で、友好的であるべきと思います。

●リクオ
「朝鮮進駐軍」は、在特会などが随分前から拡散していたトピックですね。
終戦直後に一部の在日コリアンがアウトロー化したことは事実のようですが、4千人の日本人市民が「朝鮮進駐軍」の犠牲となり殺害されたなどという情報はひどいデマだと思われます。
いまだに信じて情報を拡散している人もいるようですが、ネット上でも多くの人達によって検証され、デマと判断されてますよ。

そもそも「朝鮮進駐軍」に関する文献など一つも存在しない。在特会が証拠としている流しているキャプション付きの「朝鮮進駐軍」の写真もねつ造。その写真は、毎日新聞社提供サービス「毎日フォトバンク」が収蔵していて、写真に写ってる腰拳銃の男達は「朝鮮進駐軍」なる武装組織ではなく朝連の本部を捜索する日本の武装警察官です。
在日特権に関するデマも含め、こういう情報は調べればネット上でも確認できますよ。ただネットですべての”事実”や”真実”がわかるとは思いませんが。

そして、念を押しますが今回の広島土砂災害で在日の人達や中国人が空き巣をしたという事実はありません。
http://mainichi.jp/fea・・・/news/20140826mog00m040012000c.html
広島土砂災害:空き巣で外国人犯罪の情報ない 広島県警ー毎日新聞

●Hさん
朝鮮進駐軍はwikiにも詳しいですよね。その「名称」についての妥当性はともかく多くの悪質な犯罪があったことは事実です。
しかし、日本では、なぜ在日韓国朝鮮人だけが差別的な対象として捉えられやすいのでしょうか?インド人やアメリカ人やフィリピン人となぜ違う印象になるのか?
それは歴史的な経験や事実が我々の深層心理に空気のようなものとして残っているからではないでしょうか。
それを差別というのか、本能的防御というのかはわかりませんが、そういう深層心理が働いていることは確かだと思います。
現代でも在日韓国朝鮮人の犯罪率の高さは事実ですので、危ない経験をしたら気を付けようと思うのは、人間として自然なことだと思います。
もちろん事実が誇大化され集団ヒステリーになるのは良くないですが、火の無いところに煙は立たないことも認識しつつ、どう付き合って行くのか、お互いに考えて行けたらなあと思います。

●Hさん
若いころ、母親が「彼女連れてきてもいいけど韓国人はダメよ!」と言ってって、ずいぶん差別的だなあと思った記憶があります(笑)。
愛し合っていたらなんでもOKと思いますが、人ひとりが背負っている家族や歴史の背景ってのは、現実社会になるととてつもなく大きいんですよね。大人になるほど感じます。
素敵な音楽の前では、みんなそんなこと忘れられるんですけどね。

●リクオ
これですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/朝鮮進駐軍
ウィキにも4,000人以上の日本人が殺されたとする「GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の資料」の出典は明らかにされておらず、在特会が証拠としている流しているキャプション付きの「朝鮮進駐軍」の写真がねつ造であることが指摘されてます。ただ、ウィキも間違いやデマだらけなので、すべてを鵜呑みにしない方がいいですよ。ここで紹介されている『マンガ 嫌韓流』『嫌韓流の真実!ザ・在日特権』からの情報も間違いやねつ造が多いと考えています。

終戦直後に一部の在日コリアンがアウトロー化して犯罪行為に走ったことが事実でも、Hさんがコメントした「朝鮮進駐軍」なるものの犯罪、4000人の日本人が在日コリアンに殺されたというのは根拠のない悪質なデマでしょう。

在日コリアンが差別的な対象にとらえられやすい理由を、在日コリアン側にばかり押し付けるのも間違いだと思います。在日コリアンの犯罪率が高いのだとしたも、彼らが置かれた境遇や歴史背景を無視して、その理由を彼らの資質や民族性に求めるのは、とても危険な思考だと思います。Hさんの言うところのそういった「深層心理」が集合し暴走することで、ファシズムが生まれ、ユダヤ人大虐殺のような歴史的悲劇が起きてしまったのではないでしょうか。当時のドイツ国民の多くが、ユダヤ人には虐殺されるべき理由があると考えていたのでしょう。

Hさんの言うように、ステキな音楽を通して、そういった偏見や差別がなくなることを切に願っています。音楽には、「差別」や「敵対」ではなく他者との「共感」をもたらす力があると信じてます。


●Hさん
私も在特会の動きは、やってる人たち自身のガス抜きに過ぎず、在日コリアンの問題解決の効果があるとは思いません。言動が品性に欠けるので伝わることも無いと思っています。
でも「朝鮮進駐軍」というのは、言い得て妙だなと個人的には思っています。勝戦国でないのに勝手にそう主張した彼の国の態度にはピッタリのネーミングと思います。いささか皮肉が効きすぎってぐらいです。
在日コリアンのほとんどが、戦後、自分の自由意思で日本に残り、または密入国したまま自国に帰ろうともせず、かといって帰化もせず日本に居座り続けて来たという歴史的背景を持っています。
敗戦した日本に対して「我々は強制連行されて嫌々ここにいるしかないんだ!」との嘘を実に巧妙に利用し、現在に至っています。慰安婦の嘘と同じ構図ですね。
「差別」さえも逆に利用してです。帰化しない方がメリットがある訳です。
大阪に住んでいた頃の在日コリアンの逆差別暴力の話はほんとうに辛いものがありました。

音楽の力で、誰かを癒すことは出来ると信じていますが、あくまでエンタテインメントを超えるものにはならないと思っています。
こんなに音楽が溢れていたって、ナチスどころかチベット人というだけで差別され殺される現代の民族浄化が隣の国で今もまさに起きています。そこに行って身一つで歌う覚悟があったとしても、残念ながら瞬殺されて終わりだと思います。若いチベット僧侶が自らの身体に火を点けて訴えても何もできないんですから我々の歌に何の力があるでしょうか?

でも、楽しいから音楽はやめられないっ!ですよね!

●リクオ
在日コリアンが日本にわたってきた要因は日本による朝鮮の植民地支配でしょう。当時の朝鮮人が日本国民であったという事実を忘れてはいけないと思います。
当時、日本側が、彼らを労働力、兵力として必要とし、日本に進行する行政計画を立てた時期もあります。それらがすべてが強制連行であったとは思いませんが、朝鮮の人達が、生きるため、喰うために、低賃金労働力として日本に流入せざる得なかった背景も考える必要があります。
多くの在日コリアンが戦後に帰国しなかった、できなかったのも、朝鮮半島の険悪な政治状況、祖国の荒廃、一家離散、生活苦等さまざな理由があげられます。在日コリアンの人達に対しては、元宗主国としての責任が日本にはあるのではないかと考えています。繰り返しますが、在日コリアンが差別的な対象にとらえられやすい理由を、在日コリアン側にばかり押し付けるのは違うと思います。

在日コリアンの歴史背景等について、ここでこれ以上Hさんと議論するつもりはありません。とても、このコメント欄では語りきれないし、そこまでの時間をつくる余裕がありません。
このコメント欄でまず伝えたいことは、「『朝鮮進駐軍』なるものは、言えて妙も何も、言葉自体がねつ造であり、4000人の日本人が殺されたという事実は確認されていない。この点においてHさんは謝った情報を流している。」ということです。

Hさんがおっしゃるとおり、自分も音楽はまずエンターテインメントであると考えていますが、それを超えた存在にもなりうると実感してます。無力さも感じますが、少なくとも自分は音楽から「娯楽」以上のものを受け取ってます。


●Hさん
一日中音楽の仕事してますと、なんだかずーっと右脳使っているのか、仕事終わった後は逆に左脳というか言語を使いたくなりませんか(笑)?
リクオさんとの対話は、言葉を使う面白さが格別ですね!

最近、朝日新聞が慰安婦問題の誤報を認めましたが、こういうことって今後も在日コリアンを語る上で必ず起きてくる問題です。
ずーっと私も、日本が侵略してすまないことをしたとだけ教えられて信じて来ましたが、最近になって決してそれだけでは済まされない問題であることがさまざまな資料の検証からわかって来ました。
はたして、日本だけが悪かったのか?永遠に我々は気を使い、謝罪し続けなければならないのか?
それは、我々を必ずしも幸せにする考え方では無いと思います。
在日コリアンや韓国、朝鮮人をも幸せにする考え方では無いと思います。

お互い、悪いところもあった。良いところもあった。それを理解した上で初めて、対等に仲良くなれるのではないでしょうか。甘やかすことなく、甘えることなく。それが人間として対等で、お互いに誇り高くあるということでしょう。
歴史を語ることは、常にフィクションになってしまいますが、どのフィクションがより多くの人にとっての幸福となるのか?平和的なのか?ということを常に考えながら、我々は歴史を作って行かなくてはなりません。

在日コリアンの歴史については、GHQが戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけた占領時期の洗脳政策の流れを汲んだままの解説サイトも未だいくつかありますし(これはリクオさんの考え方と近いですね)、また、それに反する検証を行っているサイトもあります。もちろん、書籍でもさまざまな視点から書かれているものがあります。

例えば、私はこちらのサイトの認識に近いわけですね。
http://www.geocities.co.jp/WallS・・・/6199/zainiti_raireki.htm

同じ歴史的事実を元にしていても、これだけ見え方が違ってくるのが歴史の面白いところです。

その判断基準は、私にとっては先に書いたように、人間として対等であるか、お互いに誇り高くあるかということです。
広島のデマも、在特会のデマも、そしてもちろん朝日新聞が行った誤報も、間違いで誰かを貶めてしまうという、我々にも韓国人にとっても、極めて無礼なことであったと思います。

どちらにも正義があり、裏には必ず悪もあります。それを認識し合うことが、対等であるということだと思っています。

●リクオ
「お互い、悪いところもあった。良いところもあった。それを理解した上で初めて、対等に仲良くなれる」「その判断基準は、私にとっては先に書いたように、人間として対等であるか、お互いに誇り高くあるかということです。」というHさんの考えに同意します。戦後の日本人の多くが「かつて日本が一方的に悪いことをした」ですまし、思考停止したことが、現在の反動や歪みをもたらす要因になっている気がします。

その後のHさんのコメントは「広島のデマも、在特会のデマも、そしてもちろん朝日新聞が行った誤報も、間違いで誰かを貶めてしまうという、我々にも韓国人にとっても、極めて無礼なことであったと思います。」と続きますが、そう考えるのなら、Hさんがこのコメント欄で『朝鮮進駐軍』というデマを流したのも「極めて無礼なこと」です。

今、身内が占領期にGHQが行った占領政策を研究していることもあり、自分もその時代に興味を持ちはじめてます。生活や言論の側かれ見れば、占領期は武装解除が済んだだけの「戦中」だったのかもしれない。そして、その「戦中」の流れが今も続いている側面があるのでは、と考えはじめています。「多様な価値観や思考を受け入れられない」「排他的である」「全体で一方に流れやすい」という点において、最近は戦中や終戦直後の空気により近づきつつあるのかもしれません。

Hさんが紹介してくれたサイトにも目を通させてもらいましたが、視点が一方に偏り過ぎていると感じました。こういった情報の流し方も「戦中」の流れにある気がします。イデオロギーから抜け出せずに、強制連行の有無の2択にばかりこだわって議論していたら、事実や本質にはたどりつけないと思います。「左」が反転して「右」になるのは態度としては同じ気がします。

Hさんが言う「人間として対等である」ためには、相手の立場を想像し、違いも含めて「共感」に至る態度が必要だと考えます。特に3.11以降、自分が「理屈」や「思想」よりもまず大切に考えているのは、こういった「態度」です。難しいですが。
Hさんは左脳ばかりでコメントを書かれているのかもしれませんが、「意見や立場の違う他者との共感の試み」には「右脳」の活動も必要と感じます。

※これ以降は8月30日に追加

●Hさん
どうもです!
そもそも私がここに書き込もうと思ったのは、シェア元の文章が我々日本人に対して「無礼」だと感じたからです。事の発端が朝鮮人の混乱に乗じた一部朝鮮人による凶悪犯罪、暴動などが発生したことにあるということが、一切書かれていない。それを書かずして、日本人のレイシズムだけを悪と書くのは誠に卑怯です。許されるものではありません。それを安易にシェアするリクオさんも同じくです。・・・もっと見る

●Hさん
もし仮に、リクオさんが「共感の試み」をされているなら、私の言うことも充分ご理解頂けると思いますが。

●Hさん
私は、共感するためにこそ、多様な視点を提示させて頂いておるわけですよ~。

●Hさん
日本は、そもそも大昔から多様な価値観や思考を受け入れてきた国民でした。
世界で初めてレイシズム、人種差別を無くそうと世界に訴えたのも、日本です。
それは、有色人種がずっと差別されて来たこととの戦いです。・・・もっと見る
●リクオ
Hさんのシェアの文章に対する受け止め方、憤りの理由を、ある程度理解しました(事の発端が一部朝鮮人による犯罪、暴動であったとして、その暴動が起きるに至った背景を考える必要があると思いますが)。オレはシェアした文章が「卑怯」だとは感じませんが、そのように受け取る人がいることもわかりました。

ただ「卑怯」だと感じたからデマを流していいことにはなりません。何度も書きますが、終戦直後の在日コリアンの一部が犯罪を犯し、日本人を恐れさせたことが事実であっても、「朝鮮進駐軍」なるものが4000人の日本人を殺したという事実は確認されていません。ねつ造はネーミングだけではありません。

Hさんがおっしゃる通り「共感するためにこそ、多様な視点を提示する」ことがとても大切だとオレも考えます。さまざまな視点を謙虚に受け止めるよう心がけたいと思います。
先のコメントにも書きましたが、因果関係を一方だけの責任にして思考停止することの危険性を感じています。多分、アメリカの戦争責任という点においてはHさんと共通する考えがあるように思います。でも、ここでは、もうその話はやめましょうね(笑い)。

これも繰り返しになりますが、「左」が反転して「右」になるのは態度としては同じ気がします(その逆もしかり)。イデオロギーありき、前提ありきの思考から自分が完全に逃れているとは思いませんが、そうありたいと思います。

このコメント欄での議論はそろそろ終わりにしましょう。言いたいことを言い合うだけでなく、互いの言葉をしばらく受け止める時間も大切だと思います。

2014年8月24日日曜日

「甘っちょろい」言葉ー終戦記念日のツイートから考える

8月15日の終戦記念日に、以下の言葉をツイッターでつぶやいた。

単純な物語に寄りかからず、自分で丁寧に物語を紡ぐ。
「正義」を押し付けない。決めつけない。
受け身の取り合える喧嘩を。殺さない。
「敵対」より「共感」を。
社会から、多様性、他者への想像力、寛容、ユーモアが失われませんように。
ー2014年8月15日 

ツイートする前には、何度も自分の文面を見直し、自問を経た上で、画面の「ツイートする」をクリックした。
上記の言葉をツイートした後、自分がフォローしているある人物の連続したツイートをタイムライン上で目にした。そこには、とても強い言葉が連なっていた。

「戦いを望む連中に、戦わずに勝てると思うな。祈りは何の役にも立たない。行動だ。」

「社会を変えるには明確に照準を合わせる敵が必要だし、敵を本当に倒すには社会を変える必要がある。」

「『戦争に反対する人が闘いだ!なんて…。』とか甘っちょろい事を言っていてよい時代は終わりました。日本という国を戦争に向かわせる人間と“闘う”事と、そいつらと闘わないで、後から他国と“戦争”をして文字通り殺しあうこと。どちらが良いかは明白でしょう。」

一連のツイートを読みながら、なんだか自分が責められているような圧力を感じた。
3.11以降、この人物のツイートを長く読み続けてきた。脱原発を訴える反原連での活動やヘイトデモに対するカウンター活動など、その行動力にはリスペクトの気持ちを持っていたし、ツイートを読んで納得させられたり、教えられたりすることも多くあった。同意できない部分も含めて、ここ数年、この人物の言動が自分に考えるきっかけを色々と与えてくれていたことは確かだ。
今回、自分のツイートとこの人物のツイートを読み比べてみて、自分のツイートはいかにも「甘っちょろい」と感じた。これは自分を卑下しているわけではない。むしろ「甘っちょろい」言葉が通じない世の中が来ることを危惧している。
彼のツイートの中で特に「祈りは何の役にも立たない」という言葉が強く心に刺さった。
「もう2年前とは状況が変わったんだな」あらためてそう思った。

2年前の春から夏にかけて、自分は原発再稼働に反対する官邸前の抗議集会に何度も参加していた。春に参加した頃は数百人の集まりだった抗議集会が、時の野田政権が大飯原発の再稼働容認を表明したことを一つのきっかけに、6月以降は万単位が集まる大集会に膨れ上がっていった。その時期、官邸前の多勢を占めたのは、いわゆる活動家やセクトの人間ではなく、再稼働に反対するというワンイシューの下、イデオロギーを超えて集まった一般の幅広い世代の人達だった。
女性の参加者も多く、そこには激しい「怒り」や「闘い」だけではなく、静かな「祈り」も存在した。この抗議行動がイデオロギーを超えた集まりであり、行動の中に「祈り」が存在することに、自分は新しい社会運動としての可能性を感じた。

けれど、その官邸前デモを主催する側の立場だった1人が、「祈りは何の役にも立たない」とツイートしたことは、この2年間の状況の変化を象徴しているような気がする(ツイートした本人は、2年前から同じ考えだったのかもしれないけれど)。
外から見る限り、この2年の間に都市部を中心とした運動の多くが、「闘い」を全面に押し出し、先鋭化する方向に向かっている印象を受ける。その流れは、恐らく安倍政権発足以降に加速された。今月初旬、都内で行われた安倍政権とファシズムに反対するデモのタイトルが「怒りのブルドーザーデモ」だったことは、そうした傾向を象徴している気がする。それだけ危機感が高まったということだろう。
そういう状況の中では、「受け身の取り合える喧嘩を」「『敵対』より『共感』を」なんて言葉は、右からも左からも「甘っちょろい」「きれいごと」として、切り捨てられそうだ。

3.11以降、ネットやマスメディア上で、たくさんの人達がなじられ吊るし上げられるのを目にしてきた。責任の所在をはっきりさせるために、権力を持たない側から「糾弾」という形が取られることは、場合によっては仕方がないことかもしれない。けれど、「糾弾」が大手を振る社会が好ましいとは決して思わない。
自分は次第に、どちらかというと糾弾する側よりも糾弾される側の立場に自分の気持ちを置くようになっていた。2項対立を危惧し、どちらかに一方的に寄らない、グレーゾーンの存在を切り捨てない。そういった姿勢は、世の中が切羽詰まって同調圧力が強まる程に、左右関係なくどちらの立場からも「糾弾」の対象になりかねない気がしている。

いや、少し深刻にとらえ過ぎなのかもしれない。
少なくとも、自分の回りは、そんなに閉塞した状況ではない。ツアー中心の音楽生活の中では、日々「HAPPY DAY」が地道に積み重ねられているし、自分達なりの楽しみや価値観を見つけ、新しい繋がりを模索し、丁寧に個々のストーリーを紡ごうとする人達との出会いも多い。そんな出会いを重ねることで、世の中は良い方向にも変化していると実感している。
ネットやマスメディアを通して得る情報と、自分の回りの状況はまるで別世界のように感じることがある。こちらの側でずっと面白おかしくやっていたいとも思うけれど、やはり両者はつながった作用し合う世界であり、無視することもできない。
どこか一方に寄り過ぎないよう、さまざまな世界を自分の中で保ち、それぞれを渡り歩き、つなぎあわせてゆけたらと思う。公の問題を無視することはできないけれど、それに押しつぶされてはいけない。深刻になり過ぎたらアカン。

自分はこれからも「甘っちょろい」「きれいごと」を言い続けてみようと思う。しんどくなったら多分やめる。他の表現方法を考える。
「甘っちょろい」「きれいごと」が言えるのは、ある程度余裕ある安全な立場に自分がいるからだということは自覚している。「汚れ役」を他にまかせているから、そういうことが言えるのだという批判も成り立つだろう。
けれど、世の中を変えるのは「闘い」を全面に押し出した社会運動や、政治運動だけではない。皆が正面切って闘う必要はないと思う。それぞれの立場、活動に違った役割があり、それらは互いを補完し合う関係にある。そんなことをイメージし合える世の中であってほしい。もちろん、この言葉も「甘っちょろい」「きれいごと」だと自覚している。
ー2014年8月24日

2014年8月5日火曜日

相馬のMさんからのメール

福島県相馬市・南相馬市発信のフリーペーパー「そうま・かえる新聞」最新号に寄稿させてもらった文章を、許可を得てブログに転載させてもらいます。
10月12日(日)には南相馬市・朝日座において、そうま・かえる新聞主催によるライブ・イベント「うたのありか2014〜そうま・かえる新聞presents リクオ&中川敬(ソウルフラワーユニオン)LIVE IN 朝日座〜」の開催が決定しました。
http://somakaeru.jugem.jp


2011年3月11日に東日本大震災が起きた時、自分は湘南の自宅でテレビを観ていました。湘南でも自分がかつて経験したことのない激しい揺れを感じました。
ほどなくしてテレビが、津波に飲み込まれてゆく東北各地の街の映像を流し始めました。その光景に強いショックを受けると同時に、東北で暮らす多くの知人の顔が想い浮かびました。被災したいくつもの街に、自分はツアーで何度も訪れていました。地震と津波によって多くの犠牲者を出した上に、原発事故によって大量の放射能が降り注いだ相馬市と南相馬市も、自分にとっては縁の深い街でした。
 相馬市には、カルメン・マキさんのツアーのサポート・キーボーディストとして、1998年に初めて訪れました。その後は主にソロでのピアノ弾き語りのスタイルで、定期的に相馬市と南相馬市を訪れるようになりました。お寺、小ホール、喫茶店、バー、イタリアン・レストラン、スーパーetc. 相馬ではホントさまざまな場所で演奏させてもらいました。
毎回地元の人たちと楽しく打ち上がり、ツアーで訪れるたびに相馬の知人が増えていきました。こういった繋がりがなければ、自分にとって震災や原発事故は、もっと他人事になっていたのかもしれません。
震災直後は、とにかく東北の知人の安否確認を急ぎました。まず相馬で最も付き合いの古いMさんと連絡を取ることができました。
彼は、津波に飲み込まれた相馬市海沿いの街の様子を写メで送ってくれました。その写真を見て言葉を失いました。どう返事を返してよいのか、わかりませんでした。Mさんの自宅も津波に飲まれたのです。
被災地の知人たちとの安否確認が一通り終わった後も、彼らとの連絡を取り続けるよう心がけました。被災した何人もの人が、ライフラインを断たれた避難生活の中で、夜空の明るさ、美しさを語ってくれていたのが印象に残っています。自分も震災から2カ月後に初めて被災地を回り、街の灯が消えた中で、輝く夜空に見とれました。夜空は輝き続けていたけれど、僕たちはそのことに気づく事なく、前ばかり見続けていたのかもしれません。
3・11以降の体験を経て、「手に入れることによって失った大切な何か」について考えるようになりました。
震災、原発事故直後からしばらくは、被災地以外の場所でも、大半の音楽ライブ・イベントが自粛され中止になりました。自分は、震災直後から多くのライブ・ツアースケジュールが入っていました。震災翌日の12日、小田原市でのライブでは、リハーサル中に、福島第一原発の事故が起きたことを知りました。激しく動揺する気持ちを押さえて、ライブを強行したのですが、大半のお客さんが来場をキャンセルしました。
翌13日の大和市、19日の藤沢市でのライブ・イベントは中止になりました。こういう状況下での音楽のあり方について、自分のなすべきことについて、深く悩みました。相馬のMさんから再びメールが届いたのは、そんな悩みと不安の最中でした。以下のような内容です。

リクオくん
駄目だよ、LIVEを中止しちゃ。
皆が元気になるパフォーマンスを全国に届けてあげないと。
この状況で音楽まで奪われたら人間だめになるよ。
やりなよ。
ミラクルマン唄いなよ。
リクオくんの使命だよ。

相馬にとどまり、降り注ぐ放射能の恐怖と不安を抱えながらの避難生活を続ける中で、Mさんはこのメールを送ってくれたのです。
震災直後、被災した何人かの知人が自分に託した言葉は「歌い続けてくれ」でした。彼らの言葉に背中を押されて、迷いや葛藤を抱えながらも、その後の音楽活動を続けました。先行き不安の中、不謹慎と言われようと、無理をしてでも皆で音楽を楽しもうと心がけました。
震災後、多くの被災地を回りました。相馬にも何度も訪れました。現地に足を運ぶたびに初めて知ること、感じることが多く、自分の想像力の限界を思い知らされました。情報化社会の中、我々は何でも知ったつもりになり、自覚無く多くを無視し、切り捨てているのだろうと思います。
被災地でショッキングな光景を目の当たりにしたときは、自分の心にリミッターがかかったような気がしました。あまりにも大きな哀しみや絶望を受けとめるだけの心の容量が、自分にはなかったのだと思います。
でもこの哀しみや絶望から目を背けることが、再び過ちを犯すことにつながるのでしょう。当事者として、過去を背負いながら、希望を失わず、そして楽しむことも忘れずに音楽活動を続けたいと思います。
そこに街があり人の営みがある限り、これからも相馬に何度も戻ってくるつもりです。