2013年6月30日日曜日

2013年6月被災地からーその3

20キロ圏内、福島県南相馬市小高区へ入る 24日、相馬市でのライブ当日、会場入りする前に、南相馬で暮らす知人が、福島第1原発から20キロ圏内の小高区を車で案内してくれました。一昨年の10 月に南相馬を訪れたときは、20キロ圏内はまだ立ち入り禁止でしたが、現在は、日中に限っての出入りが認められています。

小高駅近くの商店街は全く人通りがなく、2年前から時間が止まっているようでした。元々田畑だった土地は雑草が生い茂り、海沿いの住宅地だった場所も、更 地ばかりが広がり、遠くまでを見渡すことができました。現地に足を運んでみて、途方もない津波の被害の大きさを、あらためて思い知らされました。この地区 は、放射性物質の除染作業もまだ行われていません。
自分が見て回った限りでは、小高区で復興が進んでいる気配は感じられませんでした。正直、街が再生する可能性があるのだろうかと思ってしまいました。道中、ためらいを感じながら、カメラのシャッターを押し続けました。

東洋経済 南相馬市小高区に見る、原発被災者の窮状
http://toyokeizai.net/articles/-/13610?page=3

相馬市と南相馬市は、地震、津波、原発事故の被害を一度に被りました。どの被害も甚大ですが、地元の人達の話を聞いていて、街の未来を描いてゆく上では、放射能物質拡散の問題が特に重くのしかかっていることを感じました。
これも今回のツアー中に、ある知人女性から聞いた話ですが、彼女は最近、2年数ヶ月振りに洗濯物をベランダに干したそうです。それは、線量が下がったから ではなく、「あきらめたから」だそうです。放射能がその量によって人体にどれ程の影響を及ぼすのかは、はっきりした答が出ていないと思いますが、原発事故 による放射能物質の拡散が、今も多くの人達に、多大な不安とストレスを与え続けていることは事実です。
原発事故の保障に関する非常にナイーブな問題も耳にしました。原発のあり方、構造が、事故前も事故後も、地域を分断し続けているのです。経済ばかりを重視し、お金ばかりで解決しようとすることで生じた歪みは、今も深刻です。
今回のツアーで被災地を回り、地元の人達と交流することで、「“復興”とは、何なのか」ということを、あらためて考えさせられました。経済復興だけでは解 決できない問題が数多く存在します。被災地の“再生”のためには、被災地以外で暮らす自分達も、生き方の根本を問い続ける必要があるのだと思います。これ は、オレ自身、あなた達自身の問題でもあるのです。


2013年6月25日火曜日

被災地からーその2

石巻にて ★5/22(水)石巻商店街カフェのママさんの話
ライブの会場入りする前、石巻市街をぶらついていた時に、ふらりと入った喫茶店で、そのお店の気さくなママさんと長話をさせてもらい、印象的な話をいくつか聞かせてもらいました。
ママさんは、3.11から2年以上が経過して、被災した自分自身の中でも、震災の記憶が薄れかけてきているので、記憶にとどめておくために、津波で壊滅的な打撃を受けた沿岸部を、時々車で走ることにしているそうです。
石巻市街は、郊外に大型店、ショッピングモールができたことによって、ドーナツ化現象が進み、商店街は3.11以前から既に寂れた状態にあった。だから、 復興といっても元に戻すだけではだめで、これを機会に、人が集い、繋がる、新しい街づくりを進めていかないと意味がない。
このママさんの話を聞いて、経済成長中心の社会あり方、分断されたコミュニティーの問題、車中心の街づくり、生活のあり方、そういった根本的な問題が、3.11を契機にして、問い直されるべきだということを、あらためて感じました。

★5/23(木)石巻・日和山公園から街を見下ろす
前日に石巻でのライブを終え、この日は午前中、被災地の支援活動を続けるNPO法人オンザロードで活動する上野祥法君の運転する車で、日和山公園まで連れて行ってもらい、海沿いの街を一望しました。
2年前に石巻入りして、最初に訪れた場所が日和山公園でした。公園に到着すると、眼前に、津波に飲まれ廃墟となった街の姿が、一気にひろがりました。言葉 もなく呆然と立ち尽くす中、瓦礫を撤去する重機の音ばかりが虚しく響いていたのを覚えています。
そして、あれから2年を経て目の前にひろがっていたのは、一面更地ばかりの景色でした。その光景に、”人の営み”を感じとることはできませんでした。
その後、車で山を降り、公園から一望していた門脇町あたりまで連れて行ってもらいました。かって住宅街だったこのあたりは、大きな公園になる計画が進んでいるそうです。街の姿が元に戻ることは、もうないのだと実感しました。

2日間の石巻滞在中に、“再生”に向かってゆく地元の人達のエネルギーを感じとれたことは、1つの収穫でした。
午後には石巻を後にして、仙台を経由してバスを乗り継いで相馬に向かいました。JRがつながっていないと相馬までは遠いなあと実感しました。
相馬入りした夜は、相馬市、南相馬市の知人3人と再会し、飲み会を行いました。原発の話はやはり重たくなりましたが、バカな話もたくさんしました。

2013年6月22日土曜日

被災地からーその1

志津川から石巻へ 5月後半に行った東北ツアーは、ライブ以外に、なるべく多くの被災地を見て回り、地元の人達と交流し、現地の生の声を聞かせてもらうことを目的の1つにしました。ブログで3回に分けて、その報告をさせてもらいます。

★5月21日(火)ー被災地、志津川、石巻へ
ツアー初日の前日に当たる21日、被災地である石巻、女川の支援活動を続けるNPO法人オンザロードで活動する上野祥法君と、早朝に下北沢で待ち合わせ て、彼の運転する車で東北に向かいました。お昼過ぎには、南三陸志津川に入り、まずは、現地の知人である内田智貴君と彼のご両親らが昨年にオープンさせた 「さんさカフェ」におじゃましてランチをいただきました。
内田君とは、2年前にソウルフラワーユニオンの中川敬君、高木克ちゃんらと訪れた志津川高校の避難所で、出会いました。彼は、3.11以前は、志津川で、 兄の卓麿君と2人でバーを営んでいたのですが、3.11の震災で、お店は4千枚のCDと共に津波に飲まれてしまいました。3・11以降しばらくは、町中 で、遺体を見つけては、2人で避難場所まで運ぶ毎日だったそうです。
 お店のほとんどすべてが流されてしまった中で、奇跡的に調理師免許だけが見つかったことをきっかけに、2人はボランティアで避難所の調理担当を受け持つ ことになります。そのとき、自分達がいくつもの避難所を回った中で、志津川高校避難所は最も厳しい環境下にあるように見えました。そんな厳しい状況の中 で、とにかく明るく、バイタリティーにあふれ、キャラ立ちがよい内田兄弟の姿は、津波によるあまりにも甚大な被害を目の当たりにして、ショック状態だった 自分にとって、1つの救いになりました。
兄の卓麿君は今年に入って上京し、中目黒にglowというバーをオープンさせました。
http://ameblo.jp/glow23/entry-11496130164.html
料理も美味しくてほんといいお店です。
弟の智貴君は、両親とともに今も仮設住宅住まいです。

内田兄弟とはその後、何度かの再会を果たしましたが、自分が志津川を訪れるのは、その時以来2年振りでした。さんさカフェでしばらく、ゆっくりさせても らった後は、カフェのスタッフのじゅんさんに街を案内してもらいながら、震災当時、震災後の状況を色々と聞かせてもらいました。
高台から志津川の街を見下ろすと、更地ばかりが目立ち、3.11以前の街の姿を想像することは困難でした。久し振りに訪れた防災対策庁舎では、自分達以外にも、鉄筋だけを残した庁舎の前で、静かに手を合わせる人を何人も見かけました。
この場所で、たくさんの人達の命が奪われ、生き残った人達の人生も一変してしまったのだということを、あらためて感じさせされました。それでも、今もここ に人の営みが確かにあるということも感じることができました。2年振りに志津川を訪れて、この街がどのように”再生”してゆくのかを、確認したいと思いま した。

陽が沈む頃には石巻に入り、夜は、市街の居酒屋にて、同じく石巻入りしていた海さくら(江ノ島の海をきれいにして次世代に残すための活動をしている団体) 代表の古澤君の音頭によって、東京海さくらチーム有志と、昨年から活動を始めた石巻海さくらチーム、そして地元の人達合わせて20人近くが集まる飲み会が 催され、そこに自分も参加させてもらいました。
初対面同士が多いにも関わらず、宴は多いに盛り上がりました。震災にまつまわる貴重な話も多く聞かせてもらい、楽しくも意義深い夜になりました。その場に 集まった中には、震災のボランティアで石巻に入ったことがきっかけで、石巻に引っ越したという若者が数人いました。これは、震災後の石巻では珍しい例では ないそうです。
宴席で印象に残る話を色々と聞かせてもらいました。
「震災後のあんな苦労はもう2度とできない。もう一度震災に遭遇したら、自分はもうあきらめてしまうかもしれない」門脇町の自宅を、津波で流されたHさんのこの言葉は胸に刺さりました。
最近子供が生まれたばかりで女川暮らす知人の思い「女川の街は津波で流されてしまって何も残っていないけれど、この子の成長と一緒にもう一度新しい街づくりをしていくのだ」という話にもぐっときました。
実に濃密な1日でした。