2021年12月17日金曜日
コロナ禍のライブ活動を振り返り、「HOBO CONNECTION FESTIVAL」を語る
2021年12月1日水曜日
自国ファースト、身内ファースト、自分ファーストを超えて ー 新たな変異株「オミクロン」に思うこと
2021年11月13日土曜日
卒業できない
高校を卒業できずに校内をさまよう夢を見た。
2021年9月28日火曜日
「問いかけ」としての存在 ー 映画『太陽の塔』を観て
2021年8月12日木曜日
時代の変化と自身の変化 ー 張本勲氏の発言から考える
2021年8月11日水曜日
久し振りに公で「陰謀論」という言葉を解禁して、思うことをつらつらと
2021年7月14日水曜日
ちょっと、ぶっちゃけます ー オンライン配信ライブの投げ銭制について
2021年6月27日日曜日
希望の始まり ー 「アメリカン・ユートピア」を観て
2021年6月9日水曜日
プライドや嫉妬が関わる問題
2021年6月6日日曜日
映画「アメージング・グレイス アレサ・フランクリン」を観て
2021年5月31日月曜日
分解と合成の日々 ー ワクチンについて考える
2021年5月11日火曜日
他者の欠如 ー 高橋洋一氏の発言に思うこと
2021年4月16日金曜日
「願望」にすがらない ー 僕らは間違え失敗する
2021年4月10日土曜日
「場」をつくる ー「まん延防止措置」適用決定を受けて
2021年4月7日水曜日
変化を楽しむ
2021年3月19日金曜日
コロナ、原発後の世界 ー 伊方原発の差止め取り消しに思う
東日本大震災、福島第一原発事故から10年。
今年は、制作やライブ以外に、この10年間の自分の活動や思考を振り返り、まとめる作業にも取り組みたいと考えている。このコロナ禍に、新しい歩みを始めるためにも、立ち止まり振り返る時間を大切にしたい。
中川敬君と2人での震災後の10年を振り返る配信トークライブの企画や、5月1日に予定している被災地である南三陸志津川からの配信ライブ、そして「アリガトウ サヨウナラ 原子力発電所」の弾き語りバージョンのYouTube公開は、そういった流れの一環だ。https://youtu.be/PU5D9SBz6NI
この10年をまとめるような書籍も出版できたらと考えている。
今月に入ってからは、データ保存していた原発に関する記事や資料、自分のブログでの原発に関する発言を読み直す作業を続けている。
そんなときに、運転差し止めを命じられていた伊方原発3号機に対して、広島高裁仮処分異議審が、一転、運転を認める決定を下したというニュースが飛び込んできた。そのニュースは、自分にいくつかの記憶を蘇らせた。
今から9年近く前、四国ツアーの途中に、愛媛県八幡浜の知人の案内で、稼働停止中の伊方原発を訪れ、その建屋内部を見学してまわったことがあった。
愛媛松山から車で約1時間半、愛媛の西先端の佐田岬半島、周りは海と自然ばかりの風光明媚な僻地に、伊方原発はひっそり存在していた。
多分、地元の人以外で伊方原発の所在地を把握している人は、ごく少数だろう。
日本の54基の原発はどこも、産業が乏しく経済力の低い列島の周辺部に存在している。その電力は、その地域のためではなく、大量のエネルギーが消費される都市部のためにこそ必要とされる。
原発の問題に関しては、安全性や放射能の問題だけでなく、「中央による地方の支配と搾取」という構図にも目を向けるべきだと思う。
この構図の中で、都市部で暮らす自分達は搾取する側であり続けた。自分達の文化と暮らしのために、経済を盾に、地方の文化や風土を蔑ろにして、コミュニティーを分断し、放射能の危険のリスクも押し付けてきたのだ。
事故や隠蔽の責任の所在や罪は明らかにするべきだし、責任の濃淡はあるにしても、原発の問題は、都市の暮らしを享受し続けた自分自身の問題としても捉えるべきだと思う。
「そんなことを言いながら、この10年間、お前は原発にどれほど向き合ってきたというのか」もう1人の自分がそう問いかける。自分も悲しいくらいに忘れっぽい人間の1人だ。
原発の問題は、このコロナ禍に炙り出されたさまざまな本質的な問題と地続きなんだと思う。
中央集権、都市集中型の生活様式、市場原理に比重を置き過ぎた価値観が限界が近づいていることを、コロナがあらためて伝えてくれた気がする。本当は、震災と原発事故が起きた10年前が、価値の転換をはかる大きな機会だったと思う。
だから、今のこの時期を大切にしたい。今がチャンスでもあると思う。
この1年を経て、日々の中で「足るを知る暮らし」や「シェアする関係」を意識する機会が以前よりも増した気がする。それは、コロナ禍でよかったことの一つだ。
できないのなら、その状況の中でやれることを見つけてきたし、敢えて少し無理をして人との共同作業を心掛け、足下のごく小さな経済を回すことも意識してきた。結果、それなりの成果も得られたと思う。
我慢や辛いばかりの1年では決してなかった。収入は減っても、やり甲斐や楽しみは減らなかった。新しいやり甲斐や楽しみが見つかった。
不安は消えないけれど、希望のほうが大きい。
このブログを書いている最中に、今度は、水戸地裁が日本原子力発電に対し、東海第2原発の運転差し止めを命じる判決とのニュースが入ってきた。時代の過渡期を象徴するような1日なのかもしれない。
これからのために、今日という日を記憶に留めておきたいと思う。
ー 2021年3月19日(金)
2021年2月12日金曜日
自分が森喜朗氏に対して根に持っていたこと
2021年1月16日土曜日
映画「あの夜、マイアミで」を観て
昨日深夜に観たAmazon Original映画「One Night in Miami」(邦題「あの夜、マイアミで」)の余韻が残ってる。
'64年当時、アメリカ黒人社会のアイコン的存在だった4人、活動家のマルコムX、モハメド・アリと改名する前のカシアス・クレイ、アメリカンフットボール選手で俳優のジム・ブラウン、歌手のサム・クックが一堂に会したマイアミでの一夜を、実話をもとに描いた会話劇。
公民権運動の盛り上がりを背景に、それぞれの立場から考えの違いを激しくぶつけあい、互いになじりあいながらも対話を続け、それぞれの役割を自覚してゆくというストーリー。場面展開が乏しくとも飽きたり間延びすることがなく、終始画面に魅きつけられた。
ジム・ブラウンから、「肌色の明るい黒人が、同じ黒人から厳しい目で見られることで、自分の立場を証明するために、より過激に走る傾向にある」ことを指摘され、マルコムが戸惑いを隠せずにいる場面が特に印象に残った。
現在に通じる分断の複雑さだけでなく、一人一人の内面にある複雑さや矛盾を丁寧に描いていて、この作品の誠実さを象徴するシーンだと思った。
映画を見終えたあと、ボブ・ディランの”Blowin' in the Wind”に触発されてサム・クックが作詞作曲したと言われる“A Change Is Gonna Come”を聴き直した。
It’s been a long, a long time coming
But I know a change gonna come, oh yes it will
長い、長い時間が掛かかる
でも転機は訪れる、きっとそうなる
マルコムは早急な革命を望み、サムクックは時間をかけた変化を求めたのだろう。
自分は、どちらかと言えば後者の立場だけれど、画面から伝わるマルコムやり切れなさに共感を覚えた。
分断が進み、対話の成り立ちにくいこの時代にこそ多くに見てもらいたい作品。
ー2021年1月16日(土)
2021年1月15日金曜日
「言論の自由」について ー トランプ大統領のアカウント永久停止から考える
先週6日に発生した米連邦議会議事堂への暴徒乱入事件を契機に、暴動を煽動したとしてトランプ大統領のツイッターのアカウントが永久停止された。それを受けて、日本でも、トランプ支持者を中心に「言論弾圧」を訴える投稿がSNSで拡散され、ツイッターのトレンドワードになるほどの盛り上がりを見せた。
この出来事は、「言論の自由」について再考させる機会を自分に与えた。
SNSのアカウント停止の背景には、トランプ派による暴力の危機が継続していて、20日に就任式が行われる首都ワシントンだけでなく、全国各州でトランプ派による暴動が懸念される切迫した状況がある。
トランプ氏がSNSでメッセージを発し続けることで、さらなる暴力が誘発される可能性は高いと思う。既に実際、彼の煽動によって、議事堂襲撃事件は起きてしまったのだ。
こうした切迫した暴力を避けるための緊急措置としてのアカウント停止に対しては、自分は理解を示す立場でありつつも、永久停止ではなく、一時停止という選択肢もはなかったのかとの思いも残る。
「言論の自由」の観点からだけでなく、この措置が、一部の狂信的なトランプ支持者をよりカルト化させ、火に油を注ぐ結果を招くことも懸念している。
そもそもトランプ氏は、今回の扇動だけでなく、これまでも、ツイッター社との利用規約に反するツイートを繰り返してきたのではないか。それを許容してきたツイッター社の対応と、今回のアカウント停止は整合性がとれていないように思う。
むしろ、もっと早くにデマ、暴力、偏見、差別、分断を煽る規約違反のツイートを削除するなり、アカウントを一時停止するべきだったのではないだろうか。ツイッターが、トランプをさらにモンスター化してしまった側面もあるように思う。
BBSニュースによれば、議会襲撃を受けてツイッター社員約350人が、ジャック・ドーシーCEOに、大統領のアカウントを禁止するよう連名の手紙で呼びかけていたそうだ。社員たちはその中で「(ツイッターは)トランプのメガホンになり、1月6日の流血沙汰に、我々が燃料を提供する結果になってしまった」と書いていたという。
この記事によるならば、トランプ氏のアカウント永久停止は、ツイッター社員の良心が後押しした判断だともとらえられる。
トランプ支持者を中心に盛り上がる「言論弾圧」という主張への反論として、一企業との契約の中の利用規約に違反してアカウントが停止されただけなのだから、それは「言論弾圧」に当たらないという意見もネット上で散見して、一定の説得力を感じた。
ただ、日本ツイッター社のアカウント停止の傾向を見ていても、この企業にどこまで信頼を置いていいのだろうかとの疑念が自分の中には残っている。
こういった大きなプラットホームが今後、時の権力や影響力の強い勢力と結びつくことで、言論統制、思想統制の意向が組み込まれる可能性だって考えられると思う。利用規約に違反したから仕方がない、では片付けられない状況も想定すべきではないだろうか。
今回のアカウント永久停止は、本来なら行うべきではない、止むに止まれずの選択、緊急の最終手段であるべきだと思う。結果論かもしれないけれど、ツイッター社は、ここまでの事態に至る前の段階で、行うべき対処があったのではないだろうか。
ドイツのメルケル首相が今回のアカウント永久停止に批判的であるとのニュースに対しては、「メルケルがトランプのアカウント停止を批判したのは、私企業が判断を下す危険性について批判したのであって、それは国家が法的に規制するべきという主張が背景にある。」との清義明氏のツイートに説得力を感じた。
ナチスに関する言論が法律によって規制されるドイツと、国家が言論の自由に介入せず、それに対する批判も規制も私権に委ねられるアメリカとの違いが、メルケル首相の発言の背景にあるようだ。
「言論弾圧」を声高に主張する人達に対しては、何を言っても許されるのが「言論の自由」なのかと問いかけたい。
ヘイトスピーチを繰り返すレイシストが、「〇〇人を皆殺しにしろ」「〇〇人はゴキブリ以下」「〇〇人は強制送還しろ」などと叫ぶことも「言論の自由」だと訴える場面を、この10年ほどの間に何度も目にして、憤りとやりきれなさを感じてきた。
「言論の自由」は大切だけれど、無制限ではないと思う。その境界線が必ずしもはっきりしなくとも、デマを撒き散らして、暴力、差別、犯罪を過剰に煽るようなツイートは、やはり制限されるべきだと思う。
そもそも憲法が保障する言論や表現の自由は、権力者に対する主権者の権利を保障する言葉だったはず。
「言論の自由」という言葉の成り立ちや意味をもう一度確認し、問い直すべきだと思う。その問いかけが放棄された時に、自由は容易く失われてゆくのだろう。
誰かが用意した劇的な物語を盲信する時点で、実は、「言論の自由」以前に、自由な思考は放棄され失われているのだと思う。
ー2021年1月15日(金)
2021年1月5日火曜日
「踊り場」に立つ意識
イタリア在住の作家・塩野七生氏が、昨夜のNHK番組「ニュースウォッチ9」にリモート出演して、コロナ禍に思うことを語っていて、印象に残る言葉が多かったので、忘れてないよう書き留めておいた。
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《100%信仰を捨てる》
民意にそってロックダウンを小刻みに繰り返すことも、強力な対策で市民を押さえつけることも、どちらに流されることもよくない。その中間をゆくべき。
100%安全でなければいけない、100%民意に添うべきだといった100%信仰を捨てる。
《「踊り場」に立つ意識》
いままで我々は上に行くのに、エスカレーターやエレベーターで上がるのは当然と思っていた。そうではなく、階段を上っていて、今は「踊り場」にいると考える。「踊り場」は、息を整える場所。そうして、また階段を上り始める。
コロナ禍で我々は歴史の「踊り場」に立っている、そう考えればいいのでは。
《16世紀のベネチアに学ぶ》
16世紀のベネチアも「踊り場」に立たされていた。
東にオスマルトルコ帝国、北に神聖ローマ帝国など領土拡張を狙う大国に囲まれ、キリスト教陣営の一員としてイスラム教のトルコとの戦いの最前線におかれることに。
一方で、ベネチアはトルコと戦火を交えながらも交易は維持。価値観の異なる相手にも国を開き続けることで、高い経済力を誇り、その後200年以上にわたって独立を保ち続けた。
ベネチア人は、海上に立つ船の姿のように、バランスをとるのに慣れている。安全保障というのは、1国だけに頼るのは非常に危険。
芸術家もビジネスマンもベネチアを好んだ。ベネチアは亡命者も受け入れた。
人々がベネチアに求めたものは、人間らしく生きること。
強圧的な政策は一時的には成功するかもしれないが、長続きしない。それは人間性に反しているから。
《自由の大切さ》
日本人、日本に捨ててほしいと切に願うのは減点主義。
自由とは失敗をしてもいいということ。失敗が許されないのは、もう自由がないということ。どこの国でも、政体が違っても、自由があれば「踊り場」から上へ向かうことができる。
失敗を恐れない生き方で、階段を上ることができる。
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転がり落ちるわけでも、八方塞がりというわけでもなく、人類がこれまで繰り返しパンデミックを乗り越えてきたように、今回もきっと自分達に見合ったペースで乗り越えてゆける。自分たちの足で「踊り場」からもう一度上ってゆける。
そのときに大事なのが自由。自由な思考と行動が可能だからこそ、危機を乗り越えるための知恵があらたに生まれる。
歴史を見るとそういう国こそが長く続いてきた。
芯の強さを感じさせる塩野氏の言葉に、心が奮い立たされる気がした。
不安に流されず、楽観にも悲観にも寄り掛からず、「踊り場」から未来を見据え、また一段一段、階段を上ってゆこうと思う。
ー 2021年1月5日(火)