50歳の初夢に山下達郎さんが出てきた。
夢の中で、達郎さんの自宅にご招待していただいた。
「以外と庶民的で質素な暮らしをされているんだなあ」
これがはじめて達郎さんの自宅を訪問しての感想だった(あくまでも夢の話ですよ)。奥さんが(夢の中での奥さんは竹内まりやさんではなかった)こちらの様子を見て何かを察したように、「この人(達郎さん)は音楽以外のことに対しては強いこだわりや執着がないんですよ」と自分に向かって柔らかい笑顔で話された。奥さんの話を聞いて「ああ、オレもそうかも」などと思った(繰り返しますが、あくまでの夢の中の話です)。
目が覚めてしばらくは、布団の中で不思議な夢の余韻を味わい続けた。
達郎さんと初めてお会いしたのは自分がCDデビューした直後だった。
自分が最初に契約したレコード会社エム・エム・ジー株式会社 (MMG) は、米ワーナー・ミュージック・グループ傘下として、アルファレコードの関連会社アルファ・ムーンとマザーエンタープライズ傘下のレコード会社マザーアンドチルドレンが合併し、新たにGARLANDレーベルを社内に発足させ、社名にそれぞれの頭文字を取って、’90年にスタートした(つまり、自分がデビューした年にMMGは発足した)。主な所属アーティストはTHE BLUE HEARTS、竹内まりやさん、そして山下達郎さんだった。
達郎さんはMMGの所属ミュージシャンであると同時に、アルファ・ムーンの設立から深く関わる会社の役員でもあった。自分はGARLANDの所属で、達郎さんとは所属レーベルが違っていたのだけれど、自分のデビューミニアルバムを聴いてくれた達郎さんから、一度会いたいと声をかけてもらい、MMGのオフィスでお会いすることになった。
緊張気味の自分に対して、達郎さんはとても気さくで多弁であった。ミニアルバムのことを褒めてもらえてとても嬉しかったし、勇気づけられたのを覚えている。達郎さんの話からは音楽に対する愛情があふれていた。
「君はなかなか売れないかもしれないけれど、長く続けてほしい」
そのときに達郎さんから言われたこの言葉を、今でも思い出すことがある。
達郎さんとはそのとき以来、一度も再会を果たせずにいる。オレのこと覚えてくれているかなあ。もう一度お会いする機会があればこう伝えたい。
「その節は、ありがたい言葉を色々とありがとうございました。お陰さまで50歳になっても、面白おかしく音楽活動を続けてます。これからもずっと続けていきます。達郎さんのアルバム『RAY OF HOPE』何度も繰り返し聴きました。」