2021年1月16日土曜日

映画「あの夜、マイアミで」を観て

 昨日深夜に観たAmazon Original映画「One Night in Miami」(邦題「あの夜、マイアミで」)の余韻が残ってる。

'64年当時、アメリカ黒人社会のアイコン的存在だった4人、活動家のマルコムX、モハメド・アリと改名する前のカシアス・クレイ、アメリカンフットボール選手で俳優のジム・ブラウン、歌手のサム・クックが一堂に会したマイアミでの一夜を、実話をもとに描いた会話劇。

公民権運動の盛り上がりを背景に、それぞれの立場から考えの違いを激しくぶつけあい、互いになじりあいながらも対話を続け、それぞれの役割を自覚してゆくというストーリー。場面展開が乏しくとも飽きたり間延びすることがなく、終始画面に魅きつけられた。


ジム・ブラウンから、「肌色の明るい黒人が、同じ黒人から厳しい目で見られることで、自分の立場を証明するために、より過激に走る傾向にある」ことを指摘され、マルコムが戸惑いを隠せずにいる場面が特に印象に残った。

現在に通じる分断の複雑さだけでなく、一人一人の内面にある複雑さや矛盾を丁寧に描いていて、この作品の誠実さを象徴するシーンだと思った。


映画を見終えたあと、ボブ・ディランの”Blowin' in the Wind”に触発されてサム・クックが作詞作曲したと言われる“A Change Is Gonna Come”を聴き直した。


It’s been a long, a long time coming

But I know a change gonna come, oh yes it will

長い、長い時間が掛かかる

でも転機は訪れる、きっとそうなる

https://youtu.be/wEBlaMOmKV4


マルコムは早急な革命を望み、サムクックは時間をかけた変化を求めたのだろう。

自分は、どちらかと言えば後者の立場だけれど、画面から伝わるマルコムやり切れなさに共感を覚えた。


分断が進み、対話の成り立ちにくいこの時代にこそ多くに見てもらいたい作品。

ー2021年1月16日(土)

2021年1月15日金曜日

「言論の自由」について ー トランプ大統領のアカウント永久停止から考える

 先週6日に発生した米連邦議会議事堂への暴徒乱入事件を契機に、暴動を煽動したとしてトランプ大統領のツイッターのアカウントが永久停止された。それを受けて、日本でも、トランプ支持者を中心に「言論弾圧」を訴える投稿がSNSで拡散され、ツイッターのトレンドワードになるほどの盛り上がりを見せた。

この出来事は、「言論の自由」について再考させる機会を自分に与えた。

SNSのアカウント停止の背景には、トランプ派による暴力の危機が継続していて、20日に就任式が行われる首都ワシントンだけでなく、全国各州でトランプ派による暴動が懸念される切迫した状況がある。

トランプ氏がSNSでメッセージを発し続けることで、さらなる暴力が誘発される可能性は高いと思う。既に実際、彼の煽動によって、議事堂襲撃事件は起きてしまったのだ。

こうした切迫した暴力を避けるための緊急措置としてのアカウント停止に対しては、自分は理解を示す立場でありつつも、永久停止ではなく、一時停止という選択肢もはなかったのかとの思いも残る。

「言論の自由」の観点からだけでなく、この措置が、一部の狂信的なトランプ支持者をよりカルト化させ、火に油を注ぐ結果を招くことも懸念している。

そもそもトランプ氏は、今回の扇動だけでなく、これまでも、ツイッター社との利用規約に反するツイートを繰り返してきたのではないか。それを許容してきたツイッター社の対応と、今回のアカウント停止は整合性がとれていないように思う。

むしろ、もっと早くにデマ、暴力、偏見、差別、分断を煽る規約違反のツイートを削除するなり、アカウントを一時停止するべきだったのではないだろうか。ツイッターが、トランプをさらにモンスター化してしまった側面もあるように思う。

BBSニュースによれば、議会襲撃を受けてツイッター社員約350人が、ジャック・ドーシーCEOに、大統領のアカウントを禁止するよう連名の手紙で呼びかけていたそうだ。社員たちはその中で「(ツイッターは)トランプのメガホンになり、1月6日の流血沙汰に、我々が燃料を提供する結果になってしまった」と書いていたという。

この記事によるならば、トランプ氏のアカウント永久停止は、ツイッター社員の良心が後押しした判断だともとらえられる。

トランプ支持者を中心に盛り上がる「言論弾圧」という主張への反論として、一企業との契約の中の利用規約に違反してアカウントが停止されただけなのだから、それは「言論弾圧」に当たらないという意見もネット上で散見して、一定の説得力を感じた。

ただ、日本ツイッター社のアカウント停止の傾向を見ていても、この企業にどこまで信頼を置いていいのだろうかとの疑念が自分の中には残っている。

こういった大きなプラットホームが今後、時の権力や影響力の強い勢力と結びつくことで、言論統制、思想統制の意向が組み込まれる可能性だって考えられると思う。利用規約に違反したから仕方がない、では片付けられない状況も想定すべきではないだろうか。

今回のアカウント永久停止は、本来なら行うべきではない、止むに止まれずの選択、緊急の最終手段であるべきだと思う。結果論かもしれないけれど、ツイッター社は、ここまでの事態に至る前の段階で、行うべき対処があったのではないだろうか。

ドイツのメルケル首相が今回のアカウント永久停止に批判的であるとのニュースに対しては、「メルケルがトランプのアカウント停止を批判したのは、私企業が判断を下す危険性について批判したのであって、それは国家が法的に規制するべきという主張が背景にある。」との清義明氏のツイートに説得力を感じた。

ナチスに関する言論が法律によって規制されるドイツと、国家が言論の自由に介入せず、それに対する批判も規制も私権に委ねられるアメリカとの違いが、メルケル首相の発言の背景にあるようだ。

「言論弾圧」を声高に主張する人達に対しては、何を言っても許されるのが「言論の自由」なのかと問いかけたい。

ヘイトスピーチを繰り返すレイシストが、「〇〇人を皆殺しにしろ」「〇〇人はゴキブリ以下」「〇〇人は強制送還しろ」などと叫ぶことも「言論の自由」だと訴える場面を、この10年ほどの間に何度も目にして、憤りとやりきれなさを感じてきた。

「言論の自由」は大切だけれど、無制限ではないと思う。その境界線が必ずしもはっきりしなくとも、デマを撒き散らして、暴力、差別、犯罪を過剰に煽るようなツイートは、やはり制限されるべきだと思う。

そもそも憲法が保障する言論や表現の自由は、権力者に対する主権者の権利を保障する言葉だったはず。

「言論の自由」という言葉の成り立ちや意味をもう一度確認し、問い直すべきだと思う。その問いかけが放棄された時に、自由は容易く失われてゆくのだろう。

誰かが用意した劇的な物語を盲信する時点で、実は、「言論の自由」以前に、自由な思考は放棄され失われているのだと思う。

ー2021年1月15日(金)

2021年1月5日火曜日

「踊り場」に立つ意識

 イタリア在住の作家・塩野七生氏が、昨夜のNHK番組「ニュースウォッチ9」にリモート出演して、コロナ禍に思うことを語っていて、印象に残る言葉が多かったので、忘れてないよう書き留めておいた。

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《100%信仰を捨てる》

民意にそってロックダウンを小刻みに繰り返すことも、強力な対策で市民を押さえつけることも、どちらに流されることもよくない。その中間をゆくべき。

100%安全でなければいけない、100%民意に添うべきだといった100%信仰を捨てる。

《「踊り場」に立つ意識》

いままで我々は上に行くのに、エスカレーターやエレベーターで上がるのは当然と思っていた。そうではなく、階段を上っていて、今は「踊り場」にいると考える。「踊り場」は、息を整える場所。そうして、また階段を上り始める。

コロナ禍で我々は歴史の「踊り場」に立っている、そう考えればいいのでは。

《16世紀のベネチアに学ぶ》

16世紀のベネチアも「踊り場」に立たされていた。

東にオスマルトルコ帝国、北に神聖ローマ帝国など領土拡張を狙う大国に囲まれ、キリスト教陣営の一員としてイスラム教のトルコとの戦いの最前線におかれることに。

一方で、ベネチアはトルコと戦火を交えながらも交易は維持。価値観の異なる相手にも国を開き続けることで、高い経済力を誇り、その後200年以上にわたって独立を保ち続けた。

ベネチア人は、海上に立つ船の姿のように、バランスをとるのに慣れている。安全保障というのは、1国だけに頼るのは非常に危険。

芸術家もビジネスマンもベネチアを好んだ。ベネチアは亡命者も受け入れた。

人々がベネチアに求めたものは、人間らしく生きること。

強圧的な政策は一時的には成功するかもしれないが、長続きしない。それは人間性に反しているから。

《自由の大切さ》

日本人、日本に捨ててほしいと切に願うのは減点主義。

自由とは失敗をしてもいいということ。失敗が許されないのは、もう自由がないということ。どこの国でも、政体が違っても、自由があれば「踊り場」から上へ向かうことができる。

失敗を恐れない生き方で、階段を上ることができる。

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転がり落ちるわけでも、八方塞がりというわけでもなく、人類がこれまで繰り返しパンデミックを乗り越えてきたように、今回もきっと自分達に見合ったペースで乗り越えてゆける。自分たちの足で「踊り場」からもう一度上ってゆける。

そのときに大事なのが自由。自由な思考と行動が可能だからこそ、危機を乗り越えるための知恵があらたに生まれる。

歴史を見るとそういう国こそが長く続いてきた。

芯の強さを感じさせる塩野氏の言葉に、心が奮い立たされる気がした。

不安に流されず、楽観にも悲観にも寄り掛からず、「踊り場」から未来を見据え、また一段一段、階段を上ってゆこうと思う。


ー 2021年1月5日(火)

2021年1月2日土曜日

2021年 新年のご挨拶


明けましておめでとうございます。
今年は京都で静かなお正月を過ごしてます。

コロナ禍の昨年は、「落としどころ」の難しい年でした。今年もそういう状況が続きそうです。
精神的な意味合いも含めて、コロナを乗り越えるためには、「不確定要素」を受け入れる態度が重要なポイントの1つになると思ってます。悲観と楽観、どちらに流されることもなく、遊び心を忘れず、心身をほぐしながら、この状況を泳いでゆきたいです。

昨年は、いろんな計画が流れたり変更を余儀なくされてしまったけれど、そういう状況だからこそ気付かされたこと、実現できたこともありました。記憶に残る重要な1年だったと思います。
今年は、コロナ禍での積み重ねを形にしてゆくつもりです。今月末からはピアノ弾き語りアルバムのレコーディングに入ります。完全弾き語りアルバムの制作は11年ぶりとなります。楽しみにしてもらえたら嬉しいです。

ガイダンスに則った上でのライブ活動、ツアーも続けてゆくつもりです。5月には、自分にとっては大きなライブイベントも予定しています。もちろん配信も続けます。
今年も、さまざまな繋がりを頼りに、皆さんと一緒に楽しめる場所、出会いの場をつくってゆきたい、地べたと繋がるライブ文化を大切にしてゆきたいと思います。

「グローバルに考えてローカルに行動する。」
コロナ禍を通じて、この姿勢の重要性を再認識しました。
足元の充実を心がけながら、身近から離れた誰かへの想像力や思いやりを忘れずにいたいと思います。

待っていてくれる人がいる、喜んでくれる人がいることが、自分の最大のモチベーションです。
皆さんの応援、心遣いに感謝しています。今年もよろしくお願いします。
良い年にしましょう。

ー2021年1月2日(土)