ニック・ロウがオリジナルで、エルヴィス・コステロが歌って広く知られるようになった名曲「(what's so funny'bout)peace, love and understanding」に日本語詞をつけて、3年程前から時々ステージでカヴァーするようになった。今年の11月から各地で13公演行われた中川敬くん(ソウルフラワーユニオン)との2人ツアーでも、この曲をメニューに入れて、毎晩演奏した。
3日前には、リクオ with HOBO HOUSE BANDによるステージで演奏されたこの曲の動画が、YouTubeにアップされた。https://youtu.be/4SrMbyEv3L8
「愛と平和と相互理解を求めるってことの、一体何がおかしいんだ?」
ニック・ロウのそんな問いかけに対して、自分なりの言葉をのせて歌おうと思うに至ったのは、穏やかならざる時代の空気が関係している。
世界的な流れとして、不寛容、排外主義、レイシズム、両極化による2項対立が進む中で、自分達が他者と共存してゆく上での最低限の共通認識が崩れはじめている、以前は「当たり前」だったはずのことが、そうではなくなり始めている不安を感じる。
これまでの「当たり前」が、「キレイゴト」や「お花畑」として否定され、差別意識を含んだ扇動的な言葉が「本音」として人々から喝采を浴びるようになった。お墨付きを得た「本音」は暴力的な感情の塊となって広がり、制御できない状況が各地で起こり始めている。英国のEU離脱やアメリカの大統領選挙の結果も、そのような状況の表れだと思える。
ネットを通じたデマとプロパガンダが横行するpost-truthと呼ばれる時代の中で、分断は深まり、他者への想像力は奪われ、どんどん感情のタガが外れてゆく怖さを感じる。
ここ数年は、リベラルの側から、「そのような感情に対しては、こちらも理性や知性ではなく感情で対抗すべきだ。下品な言動もありだ」といった意味合いの意見を目や耳にすることが多くなった。実際にそのような姿勢に基づいた行動や運動が、一定の成果をもたらしていると思う。
ただ、自分にはそういうやり方ができない。それは、自分が安全で恵まれた場所にいるからではないかと自問したりもする。
相対主義に寄りかかった冷笑主義には共感できないし、楽しさだけでなく正しさも共有したいと思う一方で、振りかざされた「正義」に戸惑いながら立ちすくむ自分も存在する。
ナイーブ過ぎるのだろうか?
自らの暴力性を自覚しながらも、相手を記号化して、感情的、暴力的(実際に肉体を傷つけるわけではないです。念のため)に対抗する手法には抵抗を感じる。酒の席で面と向かってなら、激しく感情的に言い合うことができるし、場合によっては胸ぐらを掴み合うことぐらいは辞さないけれど、それは、互いの感情を受け止めて、傷つけあいながらも受け身を取り合うことが暗黙の前提になっているからだ。
「ナイーブ」って、ニュアンスの微妙な言葉だと思う。その言葉が、脆さを含んだ世間知らずで役立たずなメンタルとして、否定的に使われる場合があることも自覚している。自分の中のそうしたメンタルに引け目を感じる一方で、「弱さ」を保ち「役立たず」であり続けたい、そんな立場の人間も存在すべきではないかとも思う。
このへんの気持ちを言葉にするのは難しい。
振り子が大きく左右に振れる中で、振り切れずに立ちすくむのにも、それなりの意志と覚悟が必要な時代になったと感じる。
ニック・ロウの書いた「(what's so funny'bout)peace, love and understanding」という曲に、自分が共感する理由の1つは、「ナイーブ」を維持し続けながら「正しさ」を確認しようとうする意志を感じるからだ。そうした思いを、あくまでもポップスとして表現しようとする姿勢に勇気づけられるのだ。https://www.youtube.com/watch?v=q_u2OK_IKw0
そしてこの曲は、エルヴィス・コステロがカヴァーすることによって、更なるガッツを注入され、スタンダードなロックナンバーとなった。ここ数年、コステロのヴァージョンを聴くことで、何度奮い立たされたかわからない。https://youtu.be/uuYPCP2RSXA
以前、自分が音楽表現する上で心掛けていたことの1つは、「ナイーブ」との距離感だった。けれど今は「ナイーブ」を自覚し、維持することが1つのテーマになりつつある。この変化は自分よりも世の中の変化によるところが大きい。
「ナイーブ」を維持しながら、「正しさ」を確認し、日々の中で楽しみを見つけ出し、遊び続けることが、この時代の中での自分なりの抵抗だ。
ー 2016年12月14日