結局、東京でのリハーサルに参加した出演者&スタッフの中から3人の陽性者が出た。幸い、それぞれ軽症との報告を受けているけれど、オミクロン株の感染力の高さと、もたらされる影響力の大きさをまざまざと見せつけられる結果となった。
この数週間で、知り合いのコロナ感染者が激増した。その中には、40°前後の発熱が続いた後に味覚嗅覚障害が出た者も何人かいる。
「今回のオミクロン株も『ただの風邪』とはとても言えない」
これが今のところの自分の実感だ。
弱毒化したとは言え、ここまで感染力の強い変異株が登場するとは専門家でさえ予想外だったように思う。国も行政も、変異を繰り返す感染症への対応が追いつかないのが現状だ。
その様を批判することは簡単だけれど、批判だけでなく、「安易な答」が存在しない現実を皆で共有した上で、「落とし所」を見つける議論の必要性を感じる。
ここにきて、新型コロナの位置付けを「2類」から季節性インフルエンザ などの「5類」に下げるべきとの意見をより多く目にするけれど、その正否が、答ありきの不毛な対立の場に化しているように見える。現実を見据えた発展的な議論が成り立っていない。
陽性であっても入院せずに自宅待機が認められ、一定条件を満たしていれば検査も必要なしとされる現状に触れた身からすれば、今のコロナの実質の位置付けは当初の「2類」枠から既に相当はみ出しているという認識だ。
議論を進めるには現状や事実の共有が前提だけれど、コロナ禍の不安要素がその前提の共有をより難しくしているように感じる。この2年間で、自分が見たい景色だけを見て、信じたいものだけを信じる傾向がさらに広まった気がする。
あくまでもコロナを「ただの風邪」と断定し続ける人達は、その不安によって「他者の痛み」に対する想像力を奪われてしまったように見える。「他者への想像力の欠如」こそが「陰謀論者」と呼ばれる極端な説にすがる人達の最大の問題点だと思う。
それは特別な資質ではなく、誰もが陥る可能性のある傾向に違いない。そういった傾向がもたらす悲劇は、歴史が何度も証明してきた。同じ時代を生きる補い合う者同士として、ともに不安を乗り越え、歴史を乗り越えてゆきたい。
先が見えない悩ましい状況は、まだ続くのだろう。今は何を優先しても、そこに「痛み」が伴うように思う。ならばせめて、その「痛み」を忘れずにいたい。
自分達が「落とし所」を見つける前に必要なプロセスは、やはり「他者への想像力」と「痛みの共有」だと思う。
ー 2022年2月5日(土)