2025年8月1日金曜日

政治家が「非国民」や「差別ではなく区別」という言葉を公言する時代

この10数年の間、政権に批判的だったり多文化共生を唱えるような人達を「非国民」という侮蔑語でレッテル貼りしたり、人種や民族に基づいた差別や偏見を「差別ではなく区別」であるとして肯定する常套句をネット上で見続けてきた。当初、そうした言説を使うのは極端な排外思想に取り憑かれたほんの一部の人達という印象だったけれど、最近はそうではなくなってきたようで怖い。

今回の参院選に当選した参政党の議員2人が、街頭演説中と当選直後に出演したテレビ番組でこの2つの言葉を使用しているのを見て、ついに政治家までもがそんな言葉を公言する時代になったのかと暗澹たる気持ちになった。
この党の党首も街頭演説中に、朝鮮人に対する侮蔑的差別用語である「チ○ン」という言葉を使用して批判を浴びている。すぐに訂正したとしても、その言葉が口をついて出た事実は変わらない。党の代表者が差別意識や排外意識を持った人物であることは明白だろう。

「日本人ファースト」はそういったレイシズムや排外主義を肯定する空気に後押しされた言葉であり、その内実は日本人全体の優先でさえなく、“正しい日本人像”に合わない人、自分とは異なる価値観や行動を排除する作用を持った言葉だと思う。

自分が愛する全ての音楽は、人種や国籍を越えて世界を巡り、互いに響き合い混じり合ってゆくことで成り立ってきた。その歴史を知れば 知るほど排外主義などありえない。自分が尊敬するミュージシャンの多くは、レイシズムや排外主義、権威主義に背を向け、時には意義を唱え続けてきた。その歴史の流れに自分も身を置き続けたいと思う。

ー 2025年8月1日(金)

2025年7月20日日曜日

参院選投票日に考えたこと

 今回の参議院選挙の期間中、公平性を盾にして、排外的・差別的・虚偽・悪意を含む主張が「一方の意見」としてさまざまなメディアで垂れ流しされ続けた。こんな状況の中、在日の幼馴染みや知人たちがどんな思いで日々を過ごしているだろうと想像して胸が痛んだ。

一方で、自分が危惧する傾向を持つ政党や候補者への投票を公言していたり、普段の言動から多分そういった政党や候補者へ投票するであろう知人達の顔も思い浮かんだ。
SNSで政治に関わる投稿をする際は、自分とは主義主張の違う彼らが目にすることも想像しながら言葉を選んでいるつもりだけれど、それでもイラつかせたり嫌な気持ちにさせているんだろうなと思う。甘いと言われようが、彼らとの対話や議論の余地は保ちたい。

考えや立場の違う人達を揶揄、誹謗中傷、見下して冷笑するような知人の投稿を目にすると悲しくなる。自分の前ではそんな奴じゃなかったのに。
「今の時代においては他者への『思いやり』や『優しさ』こそがパンクである」
先日みた映画『スーパーマン』のテーマがリアルに感じられる今日この頃。
今日は投票日。

ー 2025年7月20日(日)

2025年7月18日金曜日

『スーパーマン』における「パンク」の定義

 映画『スーパーマン』を観てきた。
デヴィッド・コレンスウェット演じる『スーパーマン』は素直なムチャいい奴だった。誰であれ「殺さない」という態度が徹底していて全くダーク色がないのが、この時代においてはむしろ新鮮で頼もしくも感じられた(でも、騙されやすそうなところはちょっと心配かな)。

映画の中の重要なキーワードは「パンク」だった。スーパーマンであるクラーク・ケントが目の前から遠くの他者にまで幅広く向ける善意と信頼、そのあまりにもいい奴ぶりこそが今の社会においてはパンクであることをこの映画は示唆する。つまり、今回の『スーパーマン』は、立場や属性の違う相手への思いやりや優しさを失いつつあるこの世界へのアンチテーゼとして描かれている。そう断言していいと思う。

アメリカでは、この映画の監督と脚本を担当したジェームズ・ガンが「スーパーマンは移民だ」と発言したことに端を発して大きな論争が巻き起こり、トランプ大統領の支持者から激しい批判が噴出しているそうだ(『スーパーマン』の原作はもともと「異星からの移民」という設定なのに)。
ジェームズ・ガンは、痛快に思えるほど娯楽映画に政治を持ち込んでみせた。この映画を観て、真っ当であることが政治的であったりパンクになる時代なんだと思った。
参議院選挙を前に実にタイムリーな映画だった。

ー 2025年7月18日(金)



2025年7月2日水曜日

映画「罪人たち」を観ての備忘録

 1930年代のアメリカ南部ミシシッピを舞台に、ブルースミュージックをふんだんにフィーチャーしたヴァンパイア映画「罪人たち」を観てきた。
娯楽作品として楽しめるだけでなく、文化や歴史を伝え、哲学的、根源的な問いに満ちた映画だった。

黒人居住区に存在した音楽酒場・ジュークジョイントの様子がここまで本格的に描かれた映画を観るのは初めてかもしれない。どこまで忠実に再現されているのかはわからないけれど、映画の中のその場所は、猥雑で野生味に溢れ、聖から俗に振り切れて、危険を伴うけれど、実に魅力的な開放空間だった。

自分がブギのリズムに影響を受けた鍵盤奏者ということもあって、若き天才ブルースマン・サミーをサポートする酔いどれブルースマン・デルタ・スリムの演奏するブルースピアノで、お客が体を揺らす光景が印象に残った。ジュークジョイントでのピアノ演奏が、ダンスミュージックとして機能している様が再現されていることにテンションが上がった。
若い頃から戦前のブギウギピアノニストのレコードを聴き、彼らの演奏場所とされたジュークジョイントやバレルハウスに関する文献を読んで想像を巡らせ、理想とするライブ空間のイメージをそれらと重ね合わせてきたので、この映画を観て、あらためて自分のルーツの一つがこの場所にあるように感じた。

映画を通して、当時のアメリカ南部におけるブルースのあり方や、黒人、アイルランド移民、先住民、中国系移民、混血など、多様で複雑なマイノリティの関わり合い、階層、文化への興味がさらに湧いた。

ストーリーに仕掛けられた様々な隠喩は、自分の知識や理解では考察が及ばない部分もあり、ここで分かったようなことは語らないよう心がけたい。パンフレットが売り切れていたのが残念だったけれど、ネットに上がっていたライアン・クーグラー監督へのインタビューを中心に据えた記事を読むことで、映画への理解が深まった(高橋健太郎さんのFacebookへの投稿で記事の存在を知りました)。
この記事を読んで、文化盗用や同化、抑圧者と被抑圧者の搾取の構図を単純化して理解することを、クーグラー監督が良しとしていないことが伝わった。善悪や二元論で語れない内容が、この映画に深みを与えている。

その才能によってヴァインパイアを呼び寄せ、人を巻き込み、多くを失いながらもギターを手放さなかったサミーの姿や、葛藤や混沌、矛盾の中でこそ生まれる音楽のダイナミズムに触れることで、ミュージシャンとしても刺激を受けた。近年、自分が再びブルーズに近づこうとしていた訳が、映画を通じて少し理解できた気がした。

自分のこれまでの生き方は破滅型ではなかったけれど、ツアー暮らしを続ける中で、ギリギリのところでバランスを取って生き残ってきたという感覚は持っている。そのギリギリの中で、映画で描かれたような音楽のダイナミズムをさらに追求したい欲は今も持ち続けている。聖と俗に引き裂かれた感覚に向き合いながら、これからも音楽の旅を続けようと思う。

昨夜、帰宅後は映画の余韻が長引いた。自身に向き合うきっかけを与えられた感じで、また寝つきが悪くなってしまった。
明後日からのツアーに映画の影響が出そうな気がする(多分、いい形で)。

ー 2025年7月2日(水)


2025年6月27日金曜日

世界は多分 他者の総和 ー 法然院にて

 昨日は法然院で毎月開催されている「第339回 善気山念佛会」にお呼びいただき、梶田住職の念仏とおはなしの後に1時間強の弾き語りステージ。

ライブ前に住職のおはなしを会場の入り口横で立ち聞きさせてもらって、少し心が軽くなった気がした。
「何をしたかで自身を評価するのではなく、何をしなかったかで評価する。」
この言葉を覚えておこうと思う。

おはなしを聞いた後、楽屋に戻る廊下の障子に星野道夫と吉野弘の詩が貼り付けてあるのに気づき、足を止める。
星野道夫の「人の心は深く、そして不思議なほど浅い。きっと、その浅さで、人は生きてゆける。」、吉野弘の「世界は多分 他者の総和」というフレーズも、この日のステージに影響を与えたかもしれない。
法然院の静寂と自然美が、それらの言葉に実感を与えてくれたように思う。些細な日常や自然に左右される自分の「浅さ」によってもたらされた心の静けさが、昨日のステージに少なからず影響を与えた。

方丈庭園をバックに、ししおどしの音、鳥のさえずり、風のざわめきに耳を傾け、自然とのアンサンブルを意識しながらのステージは法然院ならではの特別な時間だった。

客席に姉がいて、数年前、晩年の母と姉と一緒に法然院を散歩したことなどが不意に思い出され、少し心が揺れた。

ありがとうございます。いい時間を過ごさせてもらいました。
ぜひまた。



2025年6月27日(金)



2025年6月25日水曜日

マーサ社長夫妻の還暦祭

先日、大阪阿波座のカフェマーサにて開催されたマーサ片平社長夫妻の還暦をお祝いする演奏会パーティーに参加した。社長とは学生時代に同じ軽音学部に所属し、4年間一緒にバンドをやっていた仲(社長はドラム担当)。
当時のバンドメンバーや軽音の先輩や後輩、主に学生時代に出会った音楽仲間が多数集まってのステージが、午後1時半から10時近くまで長時間に渡って続いた。

ステージに上がった誰もが、音楽にときめいている様が伝わった。40年の歳月が流れても音楽の魔法は有効なんだと思った。
一度音楽に出会ったら、一時音楽を手放したとしても、音楽は待ち続けてくれているのだ。またこうやって音楽を通じて皆と楽しい時間を過ごせたことを心から嬉しく思った。

楽しさの中には、なんとも言えないビタースイートな味わいも含まれていて、その感覚を誰も言葉にはしないけれど、だからこそ愛おしくて貴重な1日だったのだ。

還暦という機会を生かして、みんなの再会と確認の場をつくろうとした社長の企みを、その場にいた誰もが汲み取って、その思いに共感し、感謝していたと思う。

おめでとう、ありがとう。

ー 2025年6月25日(水)

2025年6月9日月曜日

あれから40年

 7年振りの伊勢・カップジュビー、感慨深い夜だった。

お店のマスターでもある共演者の外ちゃん(外村伸二)とは、学生時代にLittle T&Aというロックンロールバンドを一緒にやっていた仲。当時は彼がボーカル&ギターで自分がキーボード担当。外ちゃんと当時のバンドメンバー達との出会いが自分の音楽人生に与えたは影響は大きい。
昨夜の外ちゃんのステージのバックで演奏した片平(ドラム)と浅川(ベース)は、当時のバンドメンバー。アンコールでは、外ちゃん、片平、浅川、そして地元メンバーの岡野君(ギター)、横山君(ベース)も加わってのバンドセッション。Little T&A時代の曲も2曲演奏。どの曲も当時よりも演奏のテンポが落ちていて、年齢を感じたけれど、演奏しながらこれでいいんだと思った。
お互いがさまざまな思いを抱えながら歳を重ね続けて、40年後にまたこうやって素直な気持ちで一緒に音を交わし合うことができて、ホント良かった。歳を重ねて、それぞれが前より少し優しくなれた気がした。
「やっぱり音楽は最高やな」としみじみ実感した夜でした。
ありがとう、また。