2023年7月20日木曜日

「悪意」と「創作と現実の相関性」 ー 宮﨑駿監督映画『君たちはどう生きるか』を観て

 宮﨑駿監督10年ぶりの新作映画『君たちはどう生きるか』を観た。
公開が始まったばかりなので、なるべくネタバレにならない感想を残そうと思う。

観るものに解釈を委ねる示唆的、比喩的表現が多いのは、先日観た映画『怪物』(監督・是枝裕和監督、脚本・坂元裕二)とも共通していた。https://rikuonet.blogspot.com/2023/06/blog-post_28.html
そういった表現は、行間を読まずにわかりやすい答えを性急に求める者にとっては退屈かもしれないし、減点の対象ともなりうるだろう。

早くも映画に対する賛否が分かれているようだけれど、この作品を構えて批評したり、否定的に即断するのはすごくもったいない気がする。条件反射的に抱いた「違和感」が、時間をかけて魅力に変わってゆくようなことがあり得る作品だと感じるからだ。受け取る側の「わからなさ」を受け入れる力、ネガティブ・ケイパビリティーが試される作品だとも言えるかもしれない。
映画を見終わった後は、長く余韻が残った。なんだか浄化されたような、一方ですっきりしない気分も抱きながら、監督の自伝的要素も含んでいると言われるこの映画について考え続けた。

映画を観た多くの人が印象に残るキーワードの一つは「悪意」だろう。加えて、自分にとってのもう一つのキーワードは、「創作と現実の相関性」だ。どちらも、自分の今の心情にリンクしていて、いいタイミングでこの映画に出会えた気がした。
ファンタジーの世界の中で主人公が成長してゆくストーリー展開と映像は宮崎駿ワールド全開だったけれど、自分が最も印象に残ったのは、主人公がファンタジーの世界を離れて「悪意」に塗れた現実の世界に帰ってゆく決意表明をする場面だった。

主人公の少年眞人が、他人の「悪意」を受け止めながら、同時に自らの「悪意のしるし」を自覚してゆくプロセスは、今の自分自身とも重なった。「悪意」から目を逸らすことなく、「悪意」を乗り越えてゆけたらと思う(でも、しんど過ぎたら逃げよう)。

現実の世界に対する危機感が、この映画を制作するモチベーションの一つになっていることは間違いないと思う。
創作によるファンタジーの世界に逃げ込むことなく、ファンタジーの中で、大いなる矛盾を孕んだ自分自身に向き合い、現実の世界をより良くしてゆこうとの意志が作品を通じて感じ取れた気がする。
80歳を超えても、このような身を削る表現に向き合い続ける宮﨑駿監督の姿勢にあらためて敬意を抱いたし、勇気づけられもした。

この映画には、現実を変えてゆくための理想が込められている。
表現を生業にする1人として、自身の作品に込めた理想をどうにか自分の日常の言動にもフィードバックさせてゆきたい。この映画が、その思いを新たにさせてくれた。

映画『君たちはどう生きるか』と『怪物』は、詩的である点でも共通している。
説明が本質を遠ざけることもある。言葉を含めた表現の解像度を上げてゆこうとする先に、行間で伝える詩的表現が存在するように思う。

2つの映画は、人間と共にある一方で、時には人のコントロールを超えてゆく「自然」が生き生きと野生的に描かれている点でも共通している。
「自然」は、人間の外側だけに存在するものではない。人間自身がコントロールし切れない「自然」や「野生」を抱え込んだ存在であることに対して、2つの映画は自覚的だ。自分にとっては、どちらも、野生と知性の両方を呼び覚ます作用を持った作品だった。

いずれにせよ、どちらの映画も時間をかけて様々な解釈を味わいながら理解してゆくことが可能な重層的な作品だと思う。娯楽の範疇からはみ出した作品なのかもしれないけれど、自分にとっては、想像力を刺激して気づきをもたらしてくれる作品だった。

2つの映画の表現に対する妥協のなさは、受け手への信頼によっても成り立っているのだろう。
社会全体が自己完結して他者の言葉に耳を貸さなくなりがちな状況の中で、『君たちはどう生きるか』や『怪物』のような作品が成り立つことは希望だと思う。

ー 2023年7月20日(木)

2023年7月15日土曜日

ミッツ・マングローブさんの投げ掛け

 ryuchell(りゅうちぇる)さんの死を受けてのミッツ・マングローブさんの投げ掛けは、相手の未来を奪う言動への怒り、悲しみ、やりきれなさに満ちていた。

「似非(えせ)の正義や倫理を盾に誹謗や否定ばかりし続ける人たち。皮肉や嫌みを並べて嘲笑い続ける人たち。理解が追いつかない他人の選択にひたすら嫌悪感をぶつけて自分の無知を正当化しようとし続ける人たち。日頃の鬱憤や自分の不甲斐なさを紛らわすために誰かの行く手を塞ごうとし続ける人たち。そしてそんな奴らが垂れ流した排泄物を飯の種にし続ける人たち。」

どれかに自分が当てはまっていないかとも考えた。
皮肉や嫌みを並べ立て嘲笑ったこと、ぶつけられた「嫌悪感」を投げ返そうとしたこと、自分がやってきたこと、やろうとしたことを思い出して胸が苦しくなった。
もう、やらずにおきたい。

ryuchellさんの若さ、自由、不安、希望が、これからもずっと生き続け、生きづさらを抱える誰かを救ってくれますように。

ー 2023年7月15日(土)

2023年7月13日木曜日

当事者意識 ー 山下達郎さんのコメントを受けて

FM番組「サンデー・ソングブック」での山下達郎さんの一連のコメントに対して、「『犯罪は許されないが尊敬している』ではなく『尊敬しているが犯罪は許されない』という伝え方もあった」との誰かの書き込みを目にして、自分が抱いた違和感の一部を代弁してもらったような気がした。

加害者であるジャニー喜多川氏に対する尊敬や感謝よりも、被害者に思いを寄せる言葉を聞きたかった。そう感じているのは、自分1人じゃないだろう。
「それとこれとは話が別だし、その期待自体がお門違いだ」と言う人もいる。実際、松尾潔氏の達郎さんへの期待は、一部の人が抱いていた幻想を残酷に壊す結果をもたらしたと思う。

性加害が憶測であるとの認識は明らかに間違っているし、多くの人は「知らなかった」を「知ろうとしなかった」と同義語としてととらえただろう。自分もその1人だ。
けれど、それは一個人に限られた特別な態度ではない。

感情的な非難が一方的に達郎さんに向かうことで、構造的な問題や事の本質がかえって隠されてゆくように思う。
非難する側も擁護する側もどちらも、誰かや何かのせいにばかりしたがっているように見える。
吉田豪氏の言葉を借りれば、この件は「誰もがうっすら共犯関係にあった」のだと思う。

「私たち一人一人が、この国が抱える問題として当事者意識を持ち、みんなで膿を出すというところに、舵を切るべきじゃないでしょうか」
松尾潔氏が「提言」として行なったこの発言を真摯に受け止めたい。

ー Facebook2023年7月11日の投稿からの転載

2023年7月5日水曜日

「保身」「後ろめたさ」「無意識」と「構造的な問題」


自分のSNSの投稿を読んだ音楽業界の先輩Aさんから連絡をいただき、長話しさせてもらった。Aさんの語り口からは、誰かに伝えずにはおれない、やりきれなさのようなものが伝わってきた。

問題となっている某事務所との関わりが深かったAさんの知る過去の実情を色々と教えてもらったのだけれど、それは聞きしに勝る内容だった。
話を受けて、「そんなひどい構造的な問題が何十年と続いていたんですね」と自分が言うと、Aさんから「すべて保身なんだよ」との言葉が返ってきた。

電話を切った後も「保身」という言葉がずっと心に引っかかり続けた。自分は、その言葉を、単に誰かを非難するためだけの言葉としては受け取れなかった。「保身」は、自分も含め大抵の人が行いがちなふるまいだ。Aさんも、そのことを自覚しての発言だったように思う。

この件に関しては、これからも自身の「保身」に向き合った上での「告発」が続くのかもしれない。一方では、表立たないところで、そういった「告発」に反発する流れも存在している。

少し前にSNSで、この問題に関して、加害者ではなく被害者である告発者の側を、「何を今更」といった調子で、自己責任をふりかざして強く非難する投稿を見かけた。そういった考えを持つ人が一定数いることはわかっていたけれど、その投稿の内容以上にショックだったのは、「よくぞ言ってくれた」とばかりに、投稿に賛同するコメントが多数寄せられていたことだった。

「弱い者たちが夕暮れ  さらに弱い者を叩く」 ー ブルーハーツ / TRAIN TRAIN

このやりきれない一節を僕らは、なかなか乗り越えてゆくことができない。

「もしかしたら、告発者を非難するその投稿は、それぞれが無意識に抱えていた『保身』や『後ろめたさ』を掻き消してくれる内容だったのかもしれない」
Aさんからの電話を受けた後に、そんなことを思った。そう考えるのは、自分自身の過去の言動にも思い当たる節があるからだ。

「『沈黙』は共犯だ」と声高に叫ぶことを躊躇してしまうのは、自分も「共犯者」だった過去があり、今も「共犯者」かもしれないと考えてしまうからだ。
かと言って、「共犯者」たる自分を正当化することにも躊躇を覚える。声高には叫ばずとも、自分自身の問題と捉えながら言葉を探し、時には発言し、行動したいとも思う。
こういった煮えきれない思いを言葉にするには、いつも時間がかかる。でも、それでいいのかもしれない。
条件反射を控えて、これからも乗り遅れてゆこうと思う。

Aさんとの話に戻れば、「構造的な問題」と「保身」はつながっているのだと思う。
隠し持った「保身」や「後ろめたさ」に向き合うことなしに、構造的な問題を乗り越えることはできないのだろう。

ー 2023年7月5日(水)