FM番組「サンデー・ソングブック」での山下達郎さんの一連のコメントに対して、「『犯罪は許されないが尊敬している』ではなく『尊敬しているが犯罪は許されない』という伝え方もあった」との誰かの書き込みを目にして、自分が抱いた違和感の一部を代弁してもらったような気がした。
加害者であるジャニー喜多川氏に対する尊敬や感謝よりも、被害者に思いを寄せる言葉を聞きたかった。そう感じているのは、自分1人じゃないだろう。
「それとこれとは話が別だし、その期待自体がお門違いだ」と言う人もいる。実際、松尾潔氏の達郎さんへの期待は、一部の人が抱いていた幻想を残酷に壊す結果をもたらしたと思う。
性加害が憶測であるとの認識は明らかに間違っているし、多くの人は「知らなかった」を「知ろうとしなかった」と同義語としてととらえただろう。自分もその1人だ。
けれど、それは一個人に限られた特別な態度ではない。
感情的な非難が一方的に達郎さんに向かうことで、構造的な問題や事の本質がかえって隠されてゆくように思う。
非難する側も擁護する側もどちらも、誰かや何かのせいにばかりしたがっているように見える。
吉田豪氏の言葉を借りれば、この件は「誰もがうっすら共犯関係にあった」のだと思う。
「私たち一人一人が、この国が抱える問題として当事者意識を持ち、みんなで膿を出すというところに、舵を切るべきじゃないでしょうか」
松尾潔氏が「提言」として行なったこの発言を真摯に受け止めたい。
ー Facebook2023年7月11日の投稿からの転載
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