そんな風に感じたのは初めてのことだった。
小学生の頃の自分の密やかな楽しみの1つは、自分が両親の実の子供ではなく、よその子ではないかと想像を膨らますことだった。自分がよその子であれば、色々なことが腑に落ちるような気がしたし、そういう可能性を残しておくことで、自分がなんとなく抱いていた違和感を納得させようとしていたのかもしれない。
実際に当時は、自分と両親は、見た目も性格も共通点が極端に少ないように感じていたのだが、最近は、共通点ばかりが見えるようになった。
一昨年の10月に父を亡くして以降、世の中が穏やかならざる方向に向かう程に、父のことを思い出し、その視線や視点を感じる機会が増えてゆく気がしている。父に問いかけ、その返事を想像する。時には意見が合わなかったりもする。なんだか死者と対話している感じなのだ。
研究者であった父の大きなモチベーションは「怒り」だった。今の自分は、自身が抱えている「怒り」にどう向き合えばよいのか、それをどう表現すればよいのか、まだわからずにいる気がする。
数日前に打ち上げの席で後輩ミュージシャンと激しく議論した。お互い相当に酔って、感情的に言い合った。
翌日目が覚めて、昨夜の議論のことを思い出し、もっと別の言い方があったんじゃないかと思って、少し落ち込んだ。
そのときに7月に亡くなったばかりの先輩ミュージシャン石田長生さんのことを思い出した。石田さんとは酒の席で何度も議論したり説教を受けたりした。その時の石田さんの姿と昨夜の自分の姿がだぶった。自分は石田さんと似たところがあるなあと思った。
「リクオ、昨夜のオマエはちょっと言い過ぎたんちゃうか」
石田さんのそんな声が聞こえてきた。
翌日ツアーから戻ってから、議論した後輩ミュージシャンに電話した。これも石田さんのやりそうなことなのだ。
最近の自分は事ある毎にあの世の誰かを思い出している。逝ってしまった人達との過去を振り返るだけでなく、あの人なら今こんな時にどうしただろうかと考える。彼らが思い描いた未来の姿も想像する。
たくさんの先人がさまざまな軌跡を残してくれていて、未来へのヒントは過去にたくさん存在する。彼らが描いた心の現実が自分の視野を広げ、勇気を与えてくれる。
死者は以前よりも身近な存在になりつつある。その存在を感じることが、自分の気持ちを前向きにさせる。自分は死者とともに今を生き、未来を描こうとしている気がする。あの世に旅立ったあの人達は、これからもずっと自分のそばにいる。
ー2015年8月26日(水)