2025年7月20日日曜日

参院選投票日に考えたこと

 今回の参議院選挙の期間中、公平性を盾にして、排外的・差別的・虚偽・悪意を含む主張が「一方の意見」としてさまざまなメディアで垂れ流しされ続けた。こんな状況の中、在日の幼馴染みや知人たちがどんな思いで日々を過ごしているだろうと想像して胸が痛んだ。

一方で、自分が危惧する傾向を持つ政党や候補者への投票を公言していたり、普段の言動から多分そういった政党や候補者へ投票するであろう知人達の顔も思い浮かんだ。
SNSで政治に関わる投稿をする際は、自分とは主義主張の違う彼らが目にすることも想像しながら言葉を選んでいるつもりだけれど、それでもイラつかせたり嫌な気持ちにさせているんだろうなと思う。甘いと言われようが、彼らとの対話や議論の余地は保ちたい。

考えや立場の違う人達を揶揄、誹謗中傷、見下して冷笑するような知人の投稿を目にすると悲しくなる。自分の前ではそんな奴じゃなかったのに。
「今の時代においては他者への『思いやり』や『優しさ』こそがパンクである」
先日みた映画『スーパーマン』のテーマがリアルに感じられる今日この頃。
今日は投票日。

ー 2025年7月20日(日)

2025年7月18日金曜日

『スーパーマン』における「パンク」の定義

 映画『スーパーマン』を観てきた。
デヴィッド・コレンスウェット演じる『スーパーマン』は素直なムチャいい奴だった。誰であれ「殺さない」という態度が徹底していて全くダーク色がないのが、この時代においてはむしろ新鮮で頼もしくも感じられた(でも、騙されやすそうなところはちょっと心配かな)。

映画の中の重要なキーワードは「パンク」だった。スーパーマンであるクラーク・ケントが目の前から遠くの他者にまで幅広く向ける善意と信頼、そのあまりにもいい奴ぶりこそが今の社会においてはパンクであることをこの映画は示唆する。つまり、今回の『スーパーマン』は、立場や属性の違う相手への思いやりや優しさを失いつつあるこの世界へのアンチテーゼとして描かれている。そう断言していいと思う。

アメリカでは、この映画の監督と脚本を担当したジェームズ・ガンが「スーパーマンは移民だ」と発言したことに端を発して大きな論争が巻き起こり、トランプ大統領の支持者から激しい批判が噴出しているそうだ(『スーパーマン』の原作はもともと「異星からの移民」という設定なのに)。
ジェームズ・ガンは、痛快に思えるほど娯楽映画に政治を持ち込んでみせた。この映画を観て、真っ当であることが政治的であったりパンクになる時代なんだと思った。
参議院選挙を前に実にタイムリーな映画だった。

ー 2025年7月18日(金)



2025年7月2日水曜日

映画「罪人たち」を観ての備忘録

 1930年代のアメリカ南部ミシシッピを舞台に、ブルースミュージックをふんだんにフィーチャーしたヴァンパイア映画「罪人たち」を観てきた。
娯楽作品として楽しめるだけでなく、文化や歴史を伝え、哲学的、根源的な問いに満ちた映画だった。

黒人居住区に存在した音楽酒場・ジュークジョイントの様子がここまで本格的に描かれた映画を観るのは初めてかもしれない。どこまで忠実に再現されているのかはわからないけれど、映画の中のその場所は、猥雑で野生味に溢れ、聖から俗に振り切れて、危険を伴うけれど、実に魅力的な開放空間だった。

自分がブギのリズムに影響を受けた鍵盤奏者ということもあって、若き天才ブルースマン・サミーをサポートする酔いどれブルースマン・デルタ・スリムの演奏するブルースピアノで、お客が体を揺らす光景が印象に残った。ジュークジョイントでのピアノ演奏が、ダンスミュージックとして機能している様が再現されていることにテンションが上がった。
若い頃から戦前のブギウギピアノニストのレコードを聴き、彼らの演奏場所とされたジュークジョイントやバレルハウスに関する文献を読んで想像を巡らせ、理想とするライブ空間のイメージをそれらと重ね合わせてきたので、この映画を観て、あらためて自分のルーツの一つがこの場所にあるように感じた。

映画を通して、当時のアメリカ南部におけるブルースのあり方や、黒人、アイルランド移民、先住民、中国系移民、混血など、多様で複雑なマイノリティの関わり合い、階層、文化への興味がさらに湧いた。

ストーリーに仕掛けられた様々な隠喩は、自分の知識や理解では考察が及ばない部分もあり、ここで分かったようなことは語らないよう心がけたい。パンフレットが売り切れていたのが残念だったけれど、ネットに上がっていたライアン・クーグラー監督へのインタビューを中心に据えた記事を読むことで、映画への理解が深まった(高橋健太郎さんのFacebookへの投稿で記事の存在を知りました)。
この記事を読んで、文化盗用や同化、抑圧者と被抑圧者の搾取の構図を単純化して理解することを、クーグラー監督が良しとしていないことが伝わった。善悪や二元論で語れない内容が、この映画に深みを与えている。

その才能によってヴァインパイアを呼び寄せ、人を巻き込み、多くを失いながらもギターを手放さなかったサミーの姿や、葛藤や混沌、矛盾の中でこそ生まれる音楽のダイナミズムに触れることで、ミュージシャンとしても刺激を受けた。近年、自分が再びブルーズに近づこうとしていた訳が、映画を通じて少し理解できた気がした。

自分のこれまでの生き方は破滅型ではなかったけれど、ツアー暮らしを続ける中で、ギリギリのところでバランスを取って生き残ってきたという感覚は持っている。そのギリギリの中で、映画で描かれたような音楽のダイナミズムをさらに追求したい欲は今も持ち続けている。聖と俗に引き裂かれた感覚に向き合いながら、これからも音楽の旅を続けようと思う。

昨夜、帰宅後は映画の余韻が長引いた。自身に向き合うきっかけを与えられた感じで、また寝つきが悪くなってしまった。
明後日からのツアーに映画の影響が出そうな気がする(多分、いい形で)。

ー 2025年7月2日(水)