その場で、すぐに了承してもらって、キョンさんからの提案で、メンバー選びを兼ねて、キョンさんが推薦する演奏者を集めたセッションライブを、高円寺のjirokichiで2日間ブッキングしようという話になった。
その際のベース奏者は寺さんに声がけをお願いしたいというのが、こちらからのキョンさんへの唯一のリクエストだった。
当時、寺さんが春日博文さんらと一緒にやっていたバンド、東京ビビンパクラブのライブを初めて観たのは'、その前年の94年だったと思う。絡み合うポリリズムから生まれるグルーヴと、メンバーそれぞれが「間」を共有することで構成される立体的なサウンドに身を委ねながら、こんなバンドが日本に存在したのかと驚いたのを覚えている。
そのライブを観た時は、寺さんが、自分がティーンエージャーの頃にテレビでも観ていたパンクバンド・アナーキーのベーシストだったことには全く気づかず、ただ、そのベースプレイの素晴らしさに聴き入っていた。
石川県小松で開催された野外イベントに東京ビビンパクラブと一緒に出演したのは、多分、そのしばらく後だったと思う。そのイベントの打ち上げの席で、寺さんの方から自分に話しかけてくれたのが、寺さんとの最初の面談だった。
当時の自分は、まだ人見知りのところが残っていて、せっかくこちらの席まで来てもらったのに、あまり話が弾むことなくその場は終わってしまった記憶がある。
前述の、キョンさんがコーディネイトしてくれたjirokichiでのセッションが寺さんとの初音合わせとなった。当日リハーサルのみで本番に臨む無謀なセッションだったけれど、驚いたことに寺さんは10数曲の演奏曲を全て暗譜してきていて、コード譜すら一切必要としなかった。後で聞いたら「譜面が読めないから覚えてくるしかないんだよ」とのこと。
寺さんとの共演は最初からしっくりときた記憶がある。単なるベーステクニックだけでなく、歌に寄り添う姿勢、音楽に対する謙虚さ、飾らない振る舞いに触れて、一層信頼が増した。
BO GUMBOS解散後のキョンさんは、セッションマンとして方々から引く手数多となり、スケジュールを押さえるのが困難になってしまった。結局、キョンさんのスケジュールがオリジナル・ラブの長期ツアーで数ヶ月間押さえられたことが決定打となり、バンマスをやってもらおうとの目論見は脆くも崩れ去ってしまった(その翌年には、オリジナル・ラブがキョンさんのスケジュールを押さえられなくなり、自分がキョンさんの後釜としてオリジナル・ラブのサポートを2年間やらせてもらうことになる)。
Jirokichiでのセッションがきっかけとなり、その年の自分のメジャー時代最後のアルバム「太陽をさがせ」リリースツアーのベーシストを、寺さんにお願いした。そこから寺さんとの長い付き合いが本格的に始まった。
翌'96年からは、寺さんを誘って、ピアノ・トリオバンド、リクオ&The Herzでの活動を始めた。ソロアーティストとして、いろんな面で煮詰まっていた自分の現状打破を期しての活動だった。
寺さんには、それまでやったことのないコーラスを担当してもらったり、とにかく、いろんなことにチャレンジしてもらった。今思うと、相当無理をさせていたんじゃないかと思う。
翌年にはドラムの氏やん(氏永仁)がバンドから離れることになり、寺さんとの紹介で学くん(坂田学)を新ドラマーに迎え、バンド名をThe Herzに変更。ソロ・アーティストとしての活動の一環だったバンドを、ソロとは別枠のバンドとして活動展開することにした。
この期間の3人での取り組みが自分に残した音楽財産は実に大きかった。自分の音楽性やキャラの枠組みを外して、3人で様々な音楽情報を交換し合いながら、面白いと思うことは何でも試してみた。
寺さんは、自分の新しい提案に対しては常に受け入れ体勢で、多分、的外れだと感じる提案であっても、何でも一度は試してみてくれた。寺さんの柔軟性と好奇心、懐の深さがあったからこそ、自分は様々な実験をバンドの中で気兼ねなく試みることができたのだと思う。
'02年にThe Herzが活動休止した後しばらくは、ベースを入れたバンド形態で演奏すること自体がなくなってしまい、寺さんとも3年ほど疎遠な時期が続いたけれど、'06年にバンド形態でライブを復活させて以降は、途切れることなく寺さんとの関わりが続き、今に至っている。
'12年に、ケーヤン(ウルフルケイスケ)とMAGICAL CHAIN BANDを始める際も、寺さんに参加してもらった。MCCBでの活動は、今のリクオ with HOBO HOUSE BANDの活動の流れにつながった。
現在の活動に至るまで、ライブにレコーディングに、これほど長く頻繁に自分と活動を共にしてくれているミュージシャンは寺さん以外に存在しない。
音楽活動において、一番相談に乗ってもらった相手も寺さんからもしれない。先日も、少し感情的になってしまう出来事があって、寺さんに電話して相談に乗ってもらった。話を聞いてもらった上で、寺さんのアドヴァイスを受けて電話を切ったら、随分と心が落ち着いて、あらためて自身の至らなさに気づいたりもした。
寺さんの言葉には、含みや企みが感じられず、人に対する姿勢が常にフラットなので、時に耳の痛い言葉も、寺さんに言われると素直に受け入れざるを得なくなるのだ。
自分の繊細と鈍感を最も理解してくれている一人が寺さんなんだと思う。そして、その鈍感さを、何度も「仕方がない」と許してもらっているのだと思う。甘え過ぎず、気をつけよう。
人は、互いの距離間を見誤って、イザコザを起こす場合が多い。寺さんは、人との距離の取り方が絶妙なんだと思う。相手を決めつけたり、勝手に期待し過ぎたりすることがない。自分はその距離間に救われてきた一人なのかもしれない。
思い返すと、長い付き合いの中で、寺さんとは、口論になった記憶すらない。活動を共にしながら、ずっと見守ってもらってる感じがする。
かといって、寺さんが、人や物事に対して冷めているわけでは決してない。とにかく打てば響くというか、日常でもステージでもリアクションが豊かなのだ。
寺さんのベースを聴いてもらえば、その音にときめきが宿っていることが伝わると思う。そのステージでの振る舞いは、音楽をやる喜びに満ち溢れている。還暦を迎えるにあたって、その傾向はますます顕著になりつつあるように見える。
そう、寺さんは素直なのだ。カッコつけることがないカッコ良さが、寺さんの魅力の一つだと思う。自分もそうありたい。
自分は元々バンドマン出身なので、ソロでデビューした時は、バンドでデビューできなかったという挫折が残った。でも、今、寺さん達とステージで音を奏でる時、自分の気持ちは学生時代にバンドでみんなと演奏してた頃と同じときめきに戻ることができる。違う形で夢は実現しているし、続いているのだと思う。
気づけば、寺さんとは25年の長きに渡って活動を共にしていることになる。自分の軸足はソロミュージシャンだとしても、そんな肩書きに関係なく、形は様々であっても、寺さんとはずっと一緒にバンドをやってきた気がする。かけがえのない存在だし、これからも一緒にいい夢を見たいと思う。
寺さん、少し早いですが、還暦おめでとうございます。
長年のお付き合い、ありがとうございます。感謝してます。
まだまだ、これからもよろしくお願いします。
ー2019 12月21日(土)