2013年8月25日日曜日
AZUMIさんが藤沢にやってきた
ー孤独を「経て」最高の泣き笑いライブ 昨夜は、藤沢のバー「ケインズ」で、大阪からやってきたAZUMIさんのギター弾き語りライブを観た。AZUMIさんは、自分にとってのリアルブルーズマ ン。出会ったのはオレが学生の頃だから、随分長い付き合いになる。自分が大阪を離れて17年。東京暮らしを経て、藤沢に越してきて5年。今、暮らしている 街の馴染みのお店にAZUMIさんが来てくれて、この街で知り合った人達と一緒に、そのライブを観れることが嬉しかった。
久し振りにAZUMIさんのライブをみて、やられた。ホンマに。最高の泣き笑いの夜だった。
すべての感情を引き受けた音楽。混沌、矛盾、醜さに向き合うことで生まれる震えるような説得力。ドロドロの感情を経た透明感。AZUMIさんの表現は、と にかく「経て」を積み重ねて、積み重ねて、ここにある。いつでもリアルタイム。進行形の音楽なのだ。
出会った頃からずっと、AZUMIさんには孤独の影がつきまとう。あまりにも敏感な自分のアンテナに振り回され続けている人なのかもしれない。オフステー ジでは、いつもどこか所在無さげ。1人が嫌いなわけじゃないのに、優しくされ過ぎると、どうしていいかわからない、逃げ出したくなってしまう。そんな不器 用な人なのだ。
AZUMIさんは、孤独にずっと向き合い続けてきた人なんだと思う。その姿勢は音楽に昇華されている。この夜のステージを見ていて、AZUMIさんは、孤独を「経て」ゆくことで、すべに通じるような水脈に行き着いたような気がした。
心の奥底での共感は魂の浄化をうながす。結構飲んだわりに、今朝の目覚めが清々しかったのは、AZUMIさんの音楽に深く共感して、泣き笑いさせてもらったおかげだと思う。
-2013年8月25日
2013年8月23日金曜日
プロジェクトFUKUSHIMA!イベント「Hello!!816(廃炉)」に参加して
ー2年振りのラストワルツ
先日、ミュージシャンとしても人としても尊敬する遠藤ミチロウさんからお誘いを受け、福島県郡山で開催されたプロジェクトFUKUSHIMA!イベント
「Hello!!816(廃炉)」に、脱原発を希望する1人として参加させてもらいました。イベントでは、郡山市街のいくつかの会場で同時並行にライブが
行われ、自分はラストワルツのステージに立たせてもらいました。ラストワルツは、15年前にツアーで訪れて以来、ずっと縁が続いているお店なんです。
今から約2年前、福島第一原発の事故から5ヶ月後にラストワルツを訪れました。その時の訪問は、プライベートなものでした。郡山には多量の放射能が降り注
ぎ、多くの人が街を出てゆく中、郡山に残ることを選択したラストワルツのマスター和泉さんら地元の知人達と再会し、酒を酌み交わすことが目的で、ツアーの
途中に、ラストワルツを訪れたんです。ある程度は予想していたのですが、お店の扉を開けたら、やっぱり楽器とマイクが用意されていて、急遽小一時間程のラ
イブをやらせてもらいました。
ライブを終えた後の飲み会では、地元の人達からヘビーな話を色々と聞かされました。放射能が地域の人間関係を残酷に破壊し、人々を孤立させていることを実 感させられて、ショックだったのを覚えています。ただ、この日自分が郡山にやって来た一番の目的は、皆と楽しく飲むことだったので、最後は、無理矢理にで もという気持ちでどんちゃん騒ぎに持っていって、夜更けまでさんざんバカをやりました。
再会を誓い、別れを惜しんでの帰り際、マスターの和泉さんが、わざわざ表までオレを見送ってくれました。そのとき、普段は寡黙で控え目な和泉さんから突然、はっきりとした口調で、こう言われました。
「リクオ、No more Fukusimaの曲を書いて」
何とも言えない気持ちになりました。
あれから2年。郡山市街の線量は、まだ通常の値をはるかに超えています。この数値が、人体にどれ程の影響を及ぼすのか、オレにはよくわかりません。ただ、 原発事故が郡山で暮らす人々の生活を壊し、共同体の人間関係を壊し、心に深い傷を与えていることは確かです。その傷は”経済復興”だけで消せるものではあ りません。
この日、「Hello!!816(廃炉)」イベント終了後、打ち上げが始まる迄の時間を利用して、再びラストワルツを訪れ、しばらくカウンターで飲ませて もらいました。カウンター越しの和泉さんとは、たいした会話を交わすこともなく、程なくして別会場での打ち上げに参加する時間が来てしまいました。和泉さ んは、2年前と同じように、表までオレを見送ってくれました。
そして帰り際に、こう言ってくれました。
「原発の歌(『アリガトウ サヨナラ 原子力発電所』)よかった。ありがとね。」
必ずまたラストワルツに戻ってきます。
ー2013年8月23日
ライブを終えた後の飲み会では、地元の人達からヘビーな話を色々と聞かされました。放射能が地域の人間関係を残酷に破壊し、人々を孤立させていることを実 感させられて、ショックだったのを覚えています。ただ、この日自分が郡山にやって来た一番の目的は、皆と楽しく飲むことだったので、最後は、無理矢理にで もという気持ちでどんちゃん騒ぎに持っていって、夜更けまでさんざんバカをやりました。
再会を誓い、別れを惜しんでの帰り際、マスターの和泉さんが、わざわざ表までオレを見送ってくれました。そのとき、普段は寡黙で控え目な和泉さんから突然、はっきりとした口調で、こう言われました。
「リクオ、No more Fukusimaの曲を書いて」
何とも言えない気持ちになりました。
あれから2年。郡山市街の線量は、まだ通常の値をはるかに超えています。この数値が、人体にどれ程の影響を及ぼすのか、オレにはよくわかりません。ただ、 原発事故が郡山で暮らす人々の生活を壊し、共同体の人間関係を壊し、心に深い傷を与えていることは確かです。その傷は”経済復興”だけで消せるものではあ りません。
この日、「Hello!!816(廃炉)」イベント終了後、打ち上げが始まる迄の時間を利用して、再びラストワルツを訪れ、しばらくカウンターで飲ませて もらいました。カウンター越しの和泉さんとは、たいした会話を交わすこともなく、程なくして別会場での打ち上げに参加する時間が来てしまいました。和泉さ んは、2年前と同じように、表までオレを見送ってくれました。
そして帰り際に、こう言ってくれました。
「原発の歌(『アリガトウ サヨナラ 原子力発電所』)よかった。ありがとね。」
必ずまたラストワルツに戻ってきます。
ー2013年8月23日
2013年8月20日火曜日
宮崎駿監督「風立ちぬ」を観て【後編】
ー宮崎駿が描く「美しい日本」
自分がこの映画に惹かれた1つに、失われてゆく列島の風景が描かれている点が上げられます。映画の中では、田園風景をはじめとした緑の多い日本の風土が実
に生き生きと美しく描かれています(それらとは対照をなすように、当時の整備されていない貧しい町の景色も、映画の中で描かれています)。
宮崎駿は、スタジオジブリが毎月刊行している小冊子『熱風』の7月号「憲法改正特集」の中で、30代の頃、ヨーロッパを旅して日本に帰ってきて、日本の風 土が素晴らしいものだという認識を持つようになったと語っています。自分がこの言葉に共感するのは、自分自身もミュージシャンとして日本各地をツアーして 回る生活を長く続けることで、恐らく宮崎駿と共通する感覚を持つに至ったからです。
自分はツアー生活の中で、日本各地の風土の美しさだけでなく、その多様性にも魅了されるようになりました。各地を細かくツアーをしていると、同じ都道府県 内であっても、風景、気候、食事、人の気質、方言、時間の流れ等が様々に変化してゆくのを実感します。様々な風土にふれると、五感が解放され、それらのバ ランスがよくなってゆく気がします。自分のツアー暮らしは、五感を使って「美しい日本」を発見する日々であるとも言えます。そして、その「美しさ」は、実 は「日本」という枠では一括りにできない実に様々な姿を持っていました。
それは人においても同様でした。10人10色、さまざまなバックボーンの中でホンマいろんな人が各地におるんやなあという実感が、自分の心の風通しをよくしてくれました。
自分がツアー暮らしの中で思いを深めた「美しい日本」とは、多様な風土や文化、そして数多くの愛すべき個人一人一人の存在であって、国家や国体ではなかっ たんじゃないか。宮崎駿がこの映画で表現しようとした「美しい日本」もやはり、国家や国体を含んでいない。そんなふうに感じました。宮崎駿は、国家や国体 の幻想に身を委ね過ぎることによってもたらされる破滅を恐れている。彼自身がそのような破滅に向かう気質を持った人間であるという自覚が、警戒心を一層強 めさせているのだと思います。
自分のツアー暮らしは、美しい風土を発見する一方で、多様性や美しさを失いつつある日本を目の当たりにする日々でもあります。人間との共生によって成り立 ち、微妙なバランスを保ちながら、長い時間をかけて「手入れ」され続けた日本の美しい自然は、破壊され「管理」されることで、その姿を失いつつあります。 郊外にショッピングモールや大型チェーン店が進出することで、個人店はシャッターを降ろし、繁華街は廃れ、街の空洞化、画一化が、各地で進んでいます。地 方における原発の立地も、環境の破壊や共同体の分裂をもたらしました。このような現状に対する危機感が、宮崎駿の中にもあり、その思いが、この映画を作 り、「美しい日本」を描こうとする動機の一つになったのではないかと考えます。
時の首相が口にする「美しい国」と、宮崎駿が思い入れする「美しい日本」、二人がさす「美しさ」には共通項が少ないのかもしれません。現政府が掲げる国土 強靭化計画によって必要以上に海がコンクリートで固められ、TPP参加によって、グローバリズムがより進行することになれば、各地の風土色はそこなわれ、 画一化に拍車がかかり、共同体は破壊され、「美しい日本」が加速度を増して失われてゆくのではないかと危惧します。
体験がもたらしたこういった自分の感覚、捉え方は、イデオロギーから来たもではないと思います。そして宮崎駿がこの映画で伝えようとしていることも、イデ オロギーに偏ったものではないと思います。自分のイデオロギーにあてはめて語ることで、見えなくなる大切な何かがあるということを、この映画は伝えている ように感じました。
しかし、体験がもたらす感覚も、やがて特定のイデオロギーに取り込まれ、ナショナリズムの高まりや国家間や民族間の争いの渦に巻き込まれてゆく要素を持っ ているのかもしれません。文章を綴るうちにそんな考えも生まれ始めました。思考はもどかしく続きます。答えはすぐには見えないし、割り切った答を出すべき ではないと思います。
「風立ちぬ」という映画には、共感だけでなく、違和感を抱かせる描写もあり(それは確信犯的な表現かもしれませんが)、語るべき点がまだ色々と存在しま す。女性がこの映画を観たら、もっと強い違和感を持つのではないかとも思いました。この映画は、自分のさまざまな感覚にリンクし、問題を提起し、思考を拡 げてくれました。答を押し付けるのではなく、まず感じさせた後に考えさせる、そんな力を持つすぐれた作品だと思います。
ー2013年8月20日(火)
宮崎駿は、スタジオジブリが毎月刊行している小冊子『熱風』の7月号「憲法改正特集」の中で、30代の頃、ヨーロッパを旅して日本に帰ってきて、日本の風 土が素晴らしいものだという認識を持つようになったと語っています。自分がこの言葉に共感するのは、自分自身もミュージシャンとして日本各地をツアーして 回る生活を長く続けることで、恐らく宮崎駿と共通する感覚を持つに至ったからです。
自分はツアー生活の中で、日本各地の風土の美しさだけでなく、その多様性にも魅了されるようになりました。各地を細かくツアーをしていると、同じ都道府県 内であっても、風景、気候、食事、人の気質、方言、時間の流れ等が様々に変化してゆくのを実感します。様々な風土にふれると、五感が解放され、それらのバ ランスがよくなってゆく気がします。自分のツアー暮らしは、五感を使って「美しい日本」を発見する日々であるとも言えます。そして、その「美しさ」は、実 は「日本」という枠では一括りにできない実に様々な姿を持っていました。
それは人においても同様でした。10人10色、さまざまなバックボーンの中でホンマいろんな人が各地におるんやなあという実感が、自分の心の風通しをよくしてくれました。
自分がツアー暮らしの中で思いを深めた「美しい日本」とは、多様な風土や文化、そして数多くの愛すべき個人一人一人の存在であって、国家や国体ではなかっ たんじゃないか。宮崎駿がこの映画で表現しようとした「美しい日本」もやはり、国家や国体を含んでいない。そんなふうに感じました。宮崎駿は、国家や国体 の幻想に身を委ね過ぎることによってもたらされる破滅を恐れている。彼自身がそのような破滅に向かう気質を持った人間であるという自覚が、警戒心を一層強 めさせているのだと思います。
自分のツアー暮らしは、美しい風土を発見する一方で、多様性や美しさを失いつつある日本を目の当たりにする日々でもあります。人間との共生によって成り立 ち、微妙なバランスを保ちながら、長い時間をかけて「手入れ」され続けた日本の美しい自然は、破壊され「管理」されることで、その姿を失いつつあります。 郊外にショッピングモールや大型チェーン店が進出することで、個人店はシャッターを降ろし、繁華街は廃れ、街の空洞化、画一化が、各地で進んでいます。地 方における原発の立地も、環境の破壊や共同体の分裂をもたらしました。このような現状に対する危機感が、宮崎駿の中にもあり、その思いが、この映画を作 り、「美しい日本」を描こうとする動機の一つになったのではないかと考えます。
時の首相が口にする「美しい国」と、宮崎駿が思い入れする「美しい日本」、二人がさす「美しさ」には共通項が少ないのかもしれません。現政府が掲げる国土 強靭化計画によって必要以上に海がコンクリートで固められ、TPP参加によって、グローバリズムがより進行することになれば、各地の風土色はそこなわれ、 画一化に拍車がかかり、共同体は破壊され、「美しい日本」が加速度を増して失われてゆくのではないかと危惧します。
体験がもたらしたこういった自分の感覚、捉え方は、イデオロギーから来たもではないと思います。そして宮崎駿がこの映画で伝えようとしていることも、イデ オロギーに偏ったものではないと思います。自分のイデオロギーにあてはめて語ることで、見えなくなる大切な何かがあるということを、この映画は伝えている ように感じました。
しかし、体験がもたらす感覚も、やがて特定のイデオロギーに取り込まれ、ナショナリズムの高まりや国家間や民族間の争いの渦に巻き込まれてゆく要素を持っ ているのかもしれません。文章を綴るうちにそんな考えも生まれ始めました。思考はもどかしく続きます。答えはすぐには見えないし、割り切った答を出すべき ではないと思います。
「風立ちぬ」という映画には、共感だけでなく、違和感を抱かせる描写もあり(それは確信犯的な表現かもしれませんが)、語るべき点がまだ色々と存在しま す。女性がこの映画を観たら、もっと強い違和感を持つのではないかとも思いました。この映画は、自分のさまざまな感覚にリンクし、問題を提起し、思考を拡 げてくれました。答を押し付けるのではなく、まず感じさせた後に考えさせる、そんな力を持つすぐれた作品だと思います。
ー2013年8月20日(火)
2013年8月5日月曜日
宮崎駿監督「風立ちぬ」を観て【前編】
ー「美しさ」がもたらす破滅
先日、宮崎駿監督のアニメーション映画「風立ちぬ」を観に行ってきました。零戦の設計者、堀越二郎の半生と彼が生きた大正から昭和前期の時代を描いた作品
です。主に子供を対象にして、ファンタジーに軸足を置いてきた今迄の宮崎駿作品とは一線を画する内容だと感じました。実際、自分が足を運んだ劇場の客席を
埋めたほとんどは、成人をとっくにこえた大人ばかりで、未成年者は少数でした。これは、今迄の宮崎作品には見られなかった傾向かと思います。
映画を見終えて数日が経過しましたが、まだ映画の余韻が残っている感じです。内容を思い返していると、思考がさまざまに広がってゆきます。自分自身にとっても、今の時代にとってもタイムリーな作品なのだと思います。
この映画では、二郎が夢に向かって突き進む美しい姿と、日本帝国が破滅に向かって突き進み、崩壊する姿がリンクして描かれています。「美しい飛行機を作り たい」という二郎の汚れのない人生の目標は、皮肉にも、数多くの戦死者を生み出し、結果的に、彼は日本帝国の崩壊に加担することになります。
この映画は、「戦闘機が大好きで戦争が大嫌い」という自己矛盾を抱えた作者が、その矛盾に向き合おうとした作品だとも言えると思います。宮崎駿が堀越二郎 に自身のメンタリティーを投影したことは間違いないでしょう。宮崎は「夢は狂気をはらむ」と自ら語っています。その毒を隠すことなく表現することを、彼は この作品の1つの使命と課したように感じました。
映画を見終えた後に、この映画で描かれている零戦の設計者である堀越二郎と、核開発や原発に関わった科学者や技術者の存在を重ね合わせて考えました。彼ら の夢や目標にも「美しさ」は存在したと思います。そして、その「美しさ」こそが破滅をもたらしてしまうという「呪わしさ」を、我々はどう受けとめればいい のでしょう。
二郎達の見た夢は、人類の押さえ難い欲望であり、業そのものと言えるのかもしれません。それらに向き合うことなく、原発や核の問題を解決することは難しいと思います。我々は今も業の只中にいます。果たして、舵を切り直すことができるのでしょうか。
この映画は、「反戦映画」の範疇から離れ、善悪をこえた本質、そして光と闇の両面を伝える力を持った作品だと感じました。それこそが、政治や社会運動では フォローしきれない、映画や音楽、小説といった表現が担うことのできる大切な役割の一つなのだと思います。(続く)
ー2013年8月5日(月)
映画を見終えて数日が経過しましたが、まだ映画の余韻が残っている感じです。内容を思い返していると、思考がさまざまに広がってゆきます。自分自身にとっても、今の時代にとってもタイムリーな作品なのだと思います。
この映画では、二郎が夢に向かって突き進む美しい姿と、日本帝国が破滅に向かって突き進み、崩壊する姿がリンクして描かれています。「美しい飛行機を作り たい」という二郎の汚れのない人生の目標は、皮肉にも、数多くの戦死者を生み出し、結果的に、彼は日本帝国の崩壊に加担することになります。
この映画は、「戦闘機が大好きで戦争が大嫌い」という自己矛盾を抱えた作者が、その矛盾に向き合おうとした作品だとも言えると思います。宮崎駿が堀越二郎 に自身のメンタリティーを投影したことは間違いないでしょう。宮崎は「夢は狂気をはらむ」と自ら語っています。その毒を隠すことなく表現することを、彼は この作品の1つの使命と課したように感じました。
映画を見終えた後に、この映画で描かれている零戦の設計者である堀越二郎と、核開発や原発に関わった科学者や技術者の存在を重ね合わせて考えました。彼ら の夢や目標にも「美しさ」は存在したと思います。そして、その「美しさ」こそが破滅をもたらしてしまうという「呪わしさ」を、我々はどう受けとめればいい のでしょう。
二郎達の見た夢は、人類の押さえ難い欲望であり、業そのものと言えるのかもしれません。それらに向き合うことなく、原発や核の問題を解決することは難しいと思います。我々は今も業の只中にいます。果たして、舵を切り直すことができるのでしょうか。
この映画は、「反戦映画」の範疇から離れ、善悪をこえた本質、そして光と闇の両面を伝える力を持った作品だと感じました。それこそが、政治や社会運動では フォローしきれない、映画や音楽、小説といった表現が担うことのできる大切な役割の一つなのだと思います。(続く)
ー2013年8月5日(月)
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