宮﨑駿監督10年ぶりの新作映画『君たちはどう生きるか』を観た。
公開が始まったばかりなので、なるべくネタバレにならない感想を残そうと思う。
そういった表現は、行間を読まずにわかりやすい答えを性急に求める者にとっては退屈かもしれないし、減点の対象ともなりうるだろう。
早くも映画に対する賛否が分かれているようだけれど、この作品を構えて批評したり、否定的に即断するのはすごくもったいない気がする。条件反射的に抱いた「違和感」が、時間をかけて魅力に変わってゆくようなことがあり得る作品だと感じるからだ。受け取る側の「わからなさ」を受け入れる力、ネガティブ・ケイパビリティーが試される作品だとも言えるかもしれない。
映画を見終わった後は、長く余韻が残った。なんだか浄化されたような、一方ですっきりしない気分も抱きながら、監督の自伝的要素も含んでいると言われるこの映画について考え続けた。
映画を観た多くの人が印象に残るキーワードの一つは「悪意」だろう。加えて、自分にとってのもう一つのキーワードは、「創作と現実の相関性」だ。どちらも、自分の今の心情にリンクしていて、いいタイミングでこの映画に出会えた気がした。
ファンタジーの世界の中で主人公が成長してゆくストーリー展開と映像は宮崎駿ワールド全開だったけれど、自分が最も印象に残ったのは、主人公がファンタジーの世界を離れて「悪意」に塗れた現実の世界に帰ってゆく決意表明をする場面だった。
主人公の少年眞人が、他人の「悪意」を受け止めながら、同時に自らの「悪意のしるし」を自覚してゆくプロセスは、今の自分自身とも重なった。「悪意」から目を逸らすことなく、「悪意」を乗り越えてゆけたらと思う(でも、しんど過ぎたら逃げよう)。
現実の世界に対する危機感が、この映画を制作するモチベーションの一つになっていることは間違いないと思う。
創作によるファンタジーの世界に逃げ込むことなく、ファンタジーの中で、大いなる矛盾を孕んだ自分自身に向き合い、現実の世界をより良くしてゆこうとの意志が作品を通じて感じ取れた気がする。
80歳を超えても、このような身を削る表現に向き合い続ける宮﨑駿監督の姿勢にあらためて敬意を抱いたし、勇気づけられもした。
この映画には、現実を変えてゆくための理想が込められている。
表現を生業にする1人として、自身の作品に込めた理想をどうにか自分の日常の言動にもフィードバックさせてゆきたい。この映画が、その思いを新たにさせてくれた。
映画『君たちはどう生きるか』と『怪物』は、詩的である点でも共通している。
説明が本質を遠ざけることもある。言葉を含めた表現の解像度を上げてゆこうとする先に、行間で伝える詩的表現が存在するように思う。
2つの映画は、人間と共にある一方で、時には人のコントロールを超えてゆく「自然」が生き生きと野生的に描かれている点でも共通している。
「自然」は、人間の外側だけに存在するものではない。人間自身がコントロールし切れない「自然」や「野生」を抱え込んだ存在であることに対して、2つの映画は自覚的だ。自分にとっては、どちらも、野生と知性の両方を呼び覚ます作用を持った作品だった。
いずれにせよ、どちらの映画も時間をかけて様々な解釈を味わいながら理解してゆくことが可能な重層的な作品だと思う。娯楽の範疇からはみ出した作品なのかもしれないけれど、自分にとっては、想像力を刺激して気づきをもたらしてくれる作品だった。
2つの映画の表現に対する妥協のなさは、受け手への信頼によっても成り立っているのだろう。
社会全体が自己完結して他者の言葉に耳を貸さなくなりがちな状況の中で、『君たちはどう生きるか』や『怪物』のような作品が成り立つことは希望だと思う。
ー 2023年7月20日(木)