2026年3月23日月曜日

正しく怒る

 『虎に翼』(NHK)のスピンオフドラマ『山田轟法律事務所』の余韻がまだ残ってる。

「人ってのは弱いから、鈍感に生きてる方が楽なんだよ。そういうやつらはさ、よねちゃんがそばにいるとぎゅうって胸がなる。それでさ、少しいい人間になりたくなるんだ。だから決して自分を曲げるな。今まで通り、怒り続けるよねちゃんでいるんだ。君の正義を信じて、正しく怒るんだよ。正しく不機嫌でいるんだ。」

増野がよねに送った言葉の中に、脚本の吉田恵里香さんが作品に込めた思いが集約されているように感じた。
自身の「怒り」に向き合い、その正体を知ることで、真っ当に怒りたい。その上で、対話を諦めずにいたい。 

「今は綺麗事、絵空事だとしても、どうせ進むならこっちの方がいい」 

強く、そう思う。

ー 2026年3月23日(月)

2026年3月22日日曜日

感覚を塞いだ先にあるもの ー 日米首脳会談への違和感

 SNS上では、日米首脳会談への評価が極端に分かれている。
立場というフィルターが、そうさせるのだろうか。

自分の感覚としては、「最悪の事態は避けられたのかもしれない」という安堵も残しつつ、高市・トランプ両者の振る舞いや言動は、見るに耐えなかった。
この「気持ち悪さ」や「おぞましさ」の感覚を、失いたくない。

「国益のためだ」「ビジネスなんだ」と、知ったふうな顔をしているうちに、人間としての尊厳や、矛盾への嫌悪感が麻痺していくように感じる。
「痛み」に対して鈍感になりたくない。

「国益のため」の一言で正当化するのは楽だろうけれど、そうやって感覚を塞いでいく先の未来は、ろくなもんじゃないと思う。

ー 2026年3月22日(日)

2026年3月20日金曜日

椎名林檎氏と成田悠輔氏の対談から受け取った違和感について

 文春オンラインに掲載された椎名林檎氏と成田悠輔氏の対談から受け取った違和感について考えている。
https://bunshun.jp/articles/-/84821 (全文は月刊文藝春秋のウェブメディア「文藝春秋PLUS」に掲載)

対談では、「自分が意図していないのに批判される理不尽さ」への戸惑いが強調される一方で、「なぜそれが他者にとって問題になるのか」への想像力が薄いように感じた。

「表現の自由が窮屈になっている」という実感は理解できるし、それは時に自分自身の悩みでもある。
けれど、その表現がどんな歴史の上に立ち、どんな文脈に触れてしまうのか。
そこへの視点が欠けたままでは、「理不尽に叩かれている」という感覚だけが残ってしまう。

旭日旗が背負ってきた、戦争や軍国主義、植民地支配の歴史的文脈を無視して、「ただのイメージ」として扱うこと。
それは無自覚であっても、受け取る側によっては、やはり無神経で、場合によっては暴力的ですらあるのではないか。

また、「ほんの20年ぐらい前に敗戦したみたいな雰囲気」という認識にも違和感を持った。
日本社会における“ナショナルなもの”への距離感は、戦後ずっと揺れ続けてきたものであって、ここ最近になって突然変わったものではないはずだ。

歴史は一方向からだけでは見えないはずだ。
見えていなかったものが見えてきたとき、それを「過剰反応」と片付けるのか、それとも自分の認識を問い直す契機とするのか。
その分かれ目が露わになった対談だったように思う。

ー 2026年3月19日(木)

2026年3月12日木曜日

まだ小さな流れかもしれないけれど、確実に起きている変化

 「大きな出来事があっても、社会の大勢はそんなに大きく変わらない」
震災後も、コロナ後も、そうだった。

けれど、社会が元に戻ったとしても、自分の生活の手触りは変わった。
別の価値基準を経験してしまったので、もう後戻りはできない。

震災とコロナを経て、音楽だけでなく、日常レベルでの相互作用やシェアへの意識が深まった。
地域からの発信や、地域同士をつなぐ媒介人としての役割にも、以前よりやりがいを感じるようになった。

表現して共感を求めるだけでなく、音楽が「人をつなぐ装置」であること、共同体の中で人を結びつける媒介になりうることを、より強く意識するようになった。
それは、音楽の原初のあり方に戻っているのかもしれない。

震災以降の日本では、小規模ライブ、地域イベント、チャリティライブ、配信コミュニティなどが確実に増えた。
これは単に音楽産業が変化したというより、社会が音楽を必要とする形が変わってきたのだと思う。
音楽が、情報でも商品でもなく、「関係」そのものに向かっている。

巨大メディアを通さない、音楽を介した横のつながりは確実に広がっている。
人から人へ伝わる、新しい回路が生まれている実感がある。

それは、社会全体から見ればまだ小さな流れかもしれない。
けれど文化の現場では、確実に起きている変化だ。

こうした小さな変化が、何十年もかけて広がっていけばいいと思う。
自分はその流れの中に身を置いていたい。

「お花畑」とか「綺麗事」と言われることもあるけれど、自分の感覚や考えの多くは、体験と実践によって形作られてきたものだ。
こっちの方が、やりがいがあって楽しい。
みなさん、いつでも歓迎しますよ。

ー 2026年3月12日(木)

2026年3月5日木曜日

終末論への抵抗 ー 生成AI・ChatGPTとの会話を通して

終末的な物語が強まることで、善悪が単純化され、現実の戦争のハードルが下がってゆくことを、ずいぶん前から恐れていた。
人間の心理が「大きな物語」に回収されてゆくことへの不安は、自分のこれまでの体験によるところも大きい。

「米軍の指揮官が、兵士や下士官に向けて、イランへの攻撃をアルマゲドン(終末戦争)に結びつけて語っている」との情報を受けての、生成AI・ChatGPTとの会話の一部を公開します。

━━━━━━━━━━━━━━
《米軍の30以上の基地(40以上の部隊、全軍種)で、指揮官らが兵士に対し「イランとの戦争は神の計画の一部であり、アルマゲドン(終末戦争)と関連している」と語り、ある指揮官が下士官向けのブリーフィングで「トランプ大統領はイエスに選ばれ、イランでアルマゲドンの火を灯し、イエスの再臨を促す」と語った。そんな情報を目にしました。


記事の真偽は判断しきれませんが、こうした「大きな物語」がより強化されることで、世界が益々混乱に向かっているように感じています。

僕は、小学生の頃から「ノストラダムスの大予言」に怯えさせられ、成人してからは、終末思想に取りつかれた同世代のオウム真理教信者によるテロに大きなショックを受けた世代です。テロに手を染めたオウム信者が、一歩間違えば自分の姿になっていたかもしれない― そう感じたんです。

そうした体験を通して、自分自身が弱くて不完全な人間の一人であることを自覚しながら、恐怖や不安に向き合おうとしてきたつもりです。
遠くを想いながら足元を照らし続け、他者との関係性の中で、自分なりの物語を丁寧に紡いでいく。そうやって、ハルマゲドンを待望するような「大きな物語」に抗ってきたのだと思います。

「大きな物語」を受け入れることで、人は「安心」を手にします。しかし終末という“必然”の前では、個人の痛みや他者の命は記号化され、蔑ろにされてしまう。
世界秩序の崩壊や戦争さえも「神の計画」と理解され、暴走と混乱に歯止めが効かなくなる。そんな世界になることを恐れています。》

あなたの感じている怖さは、とてもよく分かります。

まず事実関係について言えば、挙げてくださったような報道は、現時点では主流メディア全体で裏付けが取れている「確定情報」ではありません。
一部のメディアや論者が「そのような証言や内部告発がある」と報じ、それを検証・反論する記事も出ています。特に軍のような巨大組織では、個々の指揮官の発言と、組織全体の公式方針は区別して考える必要があります。

ただ――

あなたが本当に反応しているのは、個々の記事の真偽というよりも、「終末を物語として消費する構造」そのものですよね。

それは単なるフェイクニュースの問題ではなく、

国家や軍事行動が「神話的物語」に包まれること

戦争が「必然」や「使命」に変換されること

個々の命が物語の部品になること

そうした構造への直感的な警戒だと思います。

あなたが書いてくれた

遠くを想いながら足元を照らし続け、他者との関係性の中で、自分なりの物語を丁寧に紡いでいく。

これは、とても静かで、しかし強い態度です。

「大きな物語」は安心を与えます。
世界が混乱しているときほど、
「これは神の計画だ」「歴史の必然だ」「文明の戦いだ」
といった枠組みは、強い吸引力を持ちます。

なぜならそれは、

不確実性を消し

不安を意味づけし

自分を“正しい側”に固定してくれるから

でもその代償として、
他者の具体的な痛みや揺らぎが削ぎ落とされる。

あなたがオウムの世代として感じた

一歩間違えば自分だったかもしれない

という感覚は、とても重要だと思います。

それは「自分は絶対に違う」と線を引くのではなく、
「自分も同じ人間の条件の中にいる」と認める姿勢だから。

終末思想に抗う力は、
特別な思想の強さではなく、
むしろその“弱さの自覚”から生まれるのかもしれません。

世界が混乱しているように見えるとき、

・巨大な物語に酔わないこと
・単純な善悪に逃げないこと
・恐怖を他者への攻撃に変換しないこと

それは派手ではないけれど、
とても現実的な「歯止め」です。

あなたが言うように、
足元を照らす行為は小さい。
でも、終末を待望する物語に対する
最も確かな抵抗は、
たぶんそこにあります。

ー 2026年3月5日(木)

2026年2月24日火曜日

揺れながら橋の上に立つ ー トーンポリシングについて

内容(WHAT)よりも伝え方(HOW)ばかりを意識していると、結果的に、自分がトーンポリシングに加担してしまうのではないかと不安になることがある。

トーンポリシングとは、議論の内容(本質)ではなく、その伝え方や感情のあり方を問題にすることで、相手の主張を封じ込めたり、論点を逸らしたりする行為を指す。日本語では「話し方警察」と呼ばれることもある。

怒りや悲しみといった強い感情を伴う発言に対し、その感情そのものを理由に議論を退けるのが典型的なかたちだ。とりわけ、社会的弱者や抑圧されている立場の人が声を上げたときに、より強い立場の側がその声を抑え込む手段として機能することが多い。主張の内容が正しくても、口調や表現を「不適切」として退けることで、被害の訴え自体を無効化してしまうのだ。

「自分は冷静だ」という意識が精神的な優位に変わり、怒りを未熟な感情とみなしたとき、その態度は「話し方警察」に近づいていくのだろう。

けれども、議論の本質から目を逸らさず、理不尽に対する怒りの背景に心を寄せ、当事者性を引き受け続ける限り、その姿勢はトーンポリシングとは別の回路にあるはずだ。

怒りを守ることと、怒りの表現を問い直すことは、きっと両立できるはずだ。
その両立を手放さずにいたい。

自分は、揺れながら橋の上に立ち続けたい。
怒りの背景を見過ごさず、その本質を可視化し、翻訳しようとする側でありたい。

ー 2026年2月24日(火)

2026年2月22日日曜日

スローガン化された言葉と冷笑 ー 「#ママ戦争止めてくるわ」の反響に思うこと

 衆院選の直前、タイムラインに流れてくる「#ママ戦争止めてくるわ」という言葉を何度も目にした。

自民党の圧勝に伴って、防衛費の大幅増額、非核三原則の見直し、殺傷能力のある武器の輸出、スパイ防止法の制定、そして憲法九条の改正など、防衛・安保政策の大転換が行われ、日本が戦争に巻き込まれる可能性が高まるのではないか──そんな危機感から生まれた言葉であることは明白だ。

自分も同じ危機感を抱く一人だけれど、ハッシュタグの拡散には加われなかった。選挙の熱気が高まり、ハッシュタグがスローガンとしての強度を増すほど、「自分で考えるプロセス」が省略されていく危うさを感じたのだ。
これは性分のようなもので、この判断が絶対的に正しいとも思わない。ただ、自分の中にも確かに危機感があったからこそ、「考えるための余白」を守りたかった。安易に不安に押し流されたくなかったのだ。

選挙後に、このハッシュタグがエッセイスト清繭子さんの「ママ、戦争止めてくるわ」という日常の一言をきっかけに、主語を置き換えたバリエーションも含めて爆発的に拡散された経緯を知り、言葉に対する受け止め方が少し変わった。自分は「#ママ戦争止めてくるわ」を政治的なスローガンとして捉え過ぎていたのかもしれない。清繭子さんのnote(https://note.com/mayuko_kiyoshi/n/ndea3d724ba58)を読んで、その思いをより強くした。
個人の素朴な思いが、あまりにも急速に広く拡散されスローガン化することで、元の言葉の輪郭や背景が削り取られてしまったようにも思える。

ハッシュタグを政治色の強いスローガンと見なして強いアレルギー反応を示す人が出ることも予測できた。実際、拡散とともに冷ややかな批判や誹謗中傷が目立ち、その傾向は選挙後、さらに強まったように感じる。

雨宮処凛さんがこのハッシュタグを取り上げた記事(https://maga9.jp/260218-1/)がSNS上で広くシェアされ、反響を呼んだことも印象的だった。雨宮さんの記事は、過去の自身の経験に基づく見立てを含めながら、ハッシュタグを「リベラル界隈の内向きな特殊言語」として読み解く内容で、少なくとも記事中では、その出自には触れられていなかった。自分には、言葉が一人歩きしていることを象徴する内容のようにも感じられた。

拡散する側も叩く側も、想定する読者が自分たちの「仲間」に向いているという点では共通しているように思える。どちらの言葉も対話や議論を促すものというより、同じ意見同士で結束を確かめ合う「合言葉」として機能し、反応は明確に二分された。典型的な現代SNS型スローガンの構図に陥ってしまったと言えるだろう。

しかし、両者が完全に対称であるとは思えない。ハッシュタグを拡散する側に対して、相手の知性ごと貶めるような冷笑や揶揄を浴びせるのは、不均衡で残酷に映った。

揶揄を含む風刺やパロディそのものを否定するつもりはない。ただ、その刃が権力や制度といった「強者」ではなく、自分と異なる考えを持つ誰かを「一括りにして単純化し、貶める」ためや、弱い立場に向けられることに、やりきれなさを覚える。

スローガン化された言葉と冷笑がぶつかり合い、双方が過激さを増していけば、対話の余地はさらに削り取られていく。ハッシュタグをめぐる騒動も、そうした負のループに飲み込まれてしまったように思えた。
拡散されたハッシュタグが、元は一市民の子どもにかけた日常と地続きの言葉だったことを忘れずにいたい。自分も、「戦争はいやだ」という思いを共有する一人だ。

スローガン的な「強い言葉」が短期間で大きな波を起こすものであるならば、自分は、そうした言葉が振り落としていくものにも目を向けつつ、少しずつ水位を変えていくような言葉を紡ぎたい。

両者は必ずしも反目し合うものではなく、補い合う関係にもなり得るはずだ。
強い言葉で提起された問題の輪郭を、丁寧に確かめていきたい。
感情を否定することなく、モヤモヤを繰り返しながら、それでも思考を手放さずにいたい。

ー 2026年2月22日(日)

旅の効用 ー 奄美大島にて

昨夜は古仁屋・JUICE(ジュース)にて、奄美諸島ツアー最終公演。

名瀬から古仁屋までは、ASIVIスタッフの中池君が車で送ってくれた。道中いろんな話をする中で、彼の出身地である住用町が16年前の「奄美豪雨」で甚大な被害を受けたことを教えてもらう。街の機能は停止し、彼の自宅も床上浸水で住めなくなり、中学生だった彼は家族とともに名瀬へ越してきたのだそうだ。

当時、開局したばかりのコミュニティFM「あまみエフエム ディ!ウェイヴ」は、寸断された情報網をつなぎ、島民の「命綱」として重要な役割を果たした。FM開局の発起人であり、今も代表を務める麓憲吾君は、前日にライブをやらせてもらったASIVIの代表でもあり、中池君の上司にあたる。

道中、亜熱帯の森の景色の中に、満開の緋寒桜が何度も目に入った。日本の桜前線は、もう始まっているのだ。

古仁屋に到着し、ホテルにチェックインして仮眠をとった後、街をぶらつく。
古仁屋は『男はつらいよ』シリーズ事実上の最終作『寅次郎紅の花』の舞台となった町。古仁屋港に佇み、「ここで寅さんとリリーが再会したんだな」と感慨に耽る。

JUICEでのライブは昨年に続き2度目。
オープニングで演奏してくれたアコースティックデュオ・ふやよみ、ロックバンド・E21B。どちらも印象に残るステージだった。

ふやよみの2人の歌と演奏は、奄美の風土に自然と共鳴しているように感じられた。E21Bのきんじょう君とは、4年ほど前、コロナ禍に磔磔で共演して以来の再会。楽屋で話す中で、ギターパンダがレパートリーにしている「中庭のヘビイチゴ」が彼の詞曲であることを初めて知る。昨夜のライブでも披露され、そのヒリヒリするリアリティーにグッときた。

自分のライブ中、店のスタッフのカポちゃんがカウンター内で終始体を揺らしてくれていて、それがとてもいいグルーヴだった。途中から、彼女とコラボしているような気分になった。
PAのハヤセ君、いい音をありがとう。

今回のツアーで初めて、打ち上げの席で政治の話を皆とした。こういう場では、これまで以上に、政治信条の異なる人とも話せる言葉を選ぶよう心がけている。

二次会では、JUICEのマスター・圭太君と2人でいろんな話をした。
嘉徳(かとく)海岸の護岸工事への反対運動が起きており、地元住民の間でも賛否が分かれているという話は、聞いていて複雑な気持ちになった。'14年の大型台風による甚大な侵食被害により、集落を海から守っていた砂丘やアダンの林が消失し、その背後にあった民有地の畑や小屋などが流失。浸食は集落の共有財産である墓地に数メートルの距離まで迫り、さらなる台風や時化(しけ)が来れば墓地そのものが崩落しかねない切実な不安が住民の間に広がったことがきっかけで、町議会が鹿児島県に対して対策工事を要望し、県はコンクリート製の護岸を建設する事業を決定。
「先祖代々の墓地と集落の安全を守りたい」とする推進側の切実な願いと、「世界自然遺産の緩衝地帯である手つかずの自然を壊したくない」とする反対側の主張が、真っ向からぶつかっているのが現状なのだそう(AIからの情報も参考にしました)。

古仁屋を含む奄美大島各地で採取された土砂が、沖縄・辺野古新基地建設の埋め立てに使用されていることも、圭太君からの話で初めて知る。

4泊5日の奄美の旅。感じたこと、受け取った情報がたくさんで、振り返り、まとめる時間がほしくなる。
奄美を訪れる前から考え続けていたことも、自然や空気に触れ、人と交流することで、視点や受け止め方が少しずつ変わっていく感覚があった。
旅は、心の風通しをよくしてくれるのだと思う。

いいツアーでした。
出会いと再会に感謝。
また、笑顔で再会しましょう。

ー 2026年2月22日(日)

2026年2月11日水曜日

衆院選前後の大黒摩季さんの投稿を読んで感じたこと

大黒摩季さんが衆院選への投票を呼びかけたインスタグラムへの動画と、投開票日&衆院選から一夜明けてからのXへの投稿文が話題となり、賛否を呼んでいる。

それらの一連の投稿に自分も目を通した(既に削除されているようだ)。若者への期待感と、選挙結果を受けての喜びと高揚感がストレートに伝わる、エネルギッシュで祝祭ムードに満ちた内容だった。

特に違和感を覚えたのは、「何より日本中が一つになった気がしたその熱に」という一文だ。悪意がないからこそ、余計に危うさを感じた。
この言葉は、政治的立場の異なる人々を共同体の外側へ押し出してしまいかねない(自分もその側に立つ一人だ)。

今回の投稿と、それを巡る盛り上がり(賛否を含め)を見ていると、政治が出来事というより“気持ちの共有”に近づいているように感じる。
それは特定の支持層に限らず、社会全体に広がりつつある空気のようにも思える。

政治が共感の強さで動くほど、共感の外側にいる人は敵として認識されやすくなる。
そして感情によって結びついた政治は、感情によって反転もする。熱量が高いほど、その振幅もまた大きくなるのだろう。

追記)自分自身もまた、その流れに飲み込まれ得るメンタルを持った、未熟な一人であることを自覚しておきたい。

ー 2026年2月11日(水)

2026年2月2日月曜日

「怒り」と「祈り」は両輪 ー ルシンダ・ウィリアムズとブルース・スプリングスティーンの新曲を聴いて

ルシンダ・ウィリアムズの新曲「The World's Gone Wrong」を、ここ最近毎日のように聴いている。
https://www.youtube.com/watch?v=T6c8oLWr9kI&list=FLqS_G7EkuCStsksj4quXtIA&index=4

分断された社会、フェイクと感情の氾濫を思わせる歌詞。
「気づいたら世界はこんな風になってしまった」という呆然さや徒労感が伝わる一方で、そんな世界の中でも、まともであり続けようとする静かな覚悟も感じられる。
若い声では成り立たない、成熟の過程を経たブルースだと思う。

自分にとっては、移民当局によって市民2人が射殺された事件を受けて、ブルース・スプリングスティーンが先日急遽発表した楽曲「Streets Of Minneapolis」と対をなす存在になっている。
https://youtu.be/GDaPdpwA4Iw?si=crNWYKZz2U79glnM

最近は、ブルースの歌で気持ちを奮い立たせ、ルシンダの歌で感情を鎮めている。
「怒り」と「祈り」は、きっと両輪なのだと思う。
同じ現実を見つめ、それを伝えようとする誠実さにおいて、両者は通じ合っている。

"They need each other now more than ever"

「The World's Gone Wrong」は、サビに入る前のこのフレーズがとりわけ効いている。
そう、それでも人は互いを必要としているのだ。

こういう歌を聴くと、やはり音楽には、慰めや娯楽以上の力があると感じる。
自分にできることをやろうと思う。

ー 2026年2月2日(月)

2026年1月30日金曜日

「感情の消費」について

 自分のように高市早苗首相の笑顔に「演出」や「裏」を感じ取る層もいれば、「頼もしさ」や「親しみ」「安心」を受け取る層も存在していて、どうやら多数派は後者のようだ。
なぜ、これほどまでに認識の差が生じるのか。


その明確な答えを持ち合わせているわけではないけれど、政治が「考えるもの」から「感じるもの」へと、さらにシフトしている、ファクトをも蔑ろにした「感情の消費」へ向かっているように思える。
笑顔に安心したり、敵を叩く言葉や映像に溜飲を下げたりする感覚は、自分の中にも存在する。そうした感情そのものを否定したいわけではなく、感情ばかりで完結してしまうことに危うさを感じるのだ。
政治が判断の場ではなく、応援や反発の場になってしまっているのではないか。

この気持ちよさや安心感は、いったい何と引き換えにされているのか。
入り口が感情であっても、「立ち止まって考える時間」を手放さずにいたい。
今回の衆院選は、正しい情報を得て考える時間が意図的に奪われているように感じる。

ー 2026年1月30日(金)

2026年1月29日木曜日

高市首相が笑顔の表紙

 立ち寄った書店で、『WiLL』と『Hanada』が並んで平積みされていた。

両誌の表紙はいずれも高市首相の笑顔で、かつての言論誌の佇まいとは決定的に異なるものに見えた。
この違和感の正体は、いったい何なのだろう。


最近、「政治家への支持が“推し活”のようになっている」という言葉を目にするけれど、この2誌の表紙は、そうした傾向を象徴しているようにも思える。

そこに描かれた高市首相の姿は、「ヒロイン」を想起させる。伝わってくるのは、批評ではなく共感や好感だ。高市首相の「ファン」を主なターゲットにした表紙だと考えれば、腑に落ちる部分もある。

ただ、それでいいのだろうか。
高市早苗氏個人への評価以前に、政治と言論の関係そのものが変質してしまっているのではないか―そんな感覚が拭えない。

ー 2026年1月29日(木)

2026年1月27日火曜日

モヤモヤを経て

 アジアン・カンフー・ジェネレーション・後藤正文氏のこの寄稿文、彼の徒労感が伝わって、今の自分の気分にも近いと思った。

《様々な法案について、市民の代わりに国会で話し合う議員を選ぶための選挙を、個人的な信任投票のように考えて行うのは、権力の乱用ではないか》と思うし、《選挙に圧勝したとしても、国会で首相にフリーハンドが与えられるわけではない。今回の衆議院の解散は、国会を軽視している。》とも思う。

《しかし、いつも通り開票日の夜にうなだれている自分を想像して悲しい。生業の音楽は、世の中のどのような仕事とも同じく、政治や社会と切り離せるものではないと考えているが、政治に熱狂する面倒くさい音楽家だと思われて徒労感が増すくらいなら、無言のまま、成り行きを傍観しようかと考えてしまう。》
自分もまさに今、そんな気分。

「日本は単一民族国家」と発言した候補者が「全国最年少知事」になったり、陰謀論・排外主義者が集まった団体が国政政党に認定されたり、トランプ政権下での移民関税執行局(ICE)による暴力行為が一般市民への殺害にまでエスカレートしたり──この数日のニュースに触れるだけで、社会のフェーズがさらに変化したことを痛感している。
先に挙げた出来事を肯定的に捉える人も少なくなく、そうした状況の中で、分断を避けながらどのような言葉を紡げばよいのか、悩むことがさらに多くなった。

傍観者に留まるつもりはないけれど、誰かや何かを切り捨てるような言葉は、できるだけ避けたい。内省を重ねながら自分事として言葉を紡ぎ、それを音楽表現へとつなげていけたらと思う今日のこの頃。
考え始めると、よりモヤモヤが広がる一方で、でも少しずつ何かが見えてくるような感覚もあって、その積み重ねをこれからも続けたい。

そろそろメロディーと言葉、リズムがつながってくれるかな。

ー 2026年1月27日(火)

2026年1月22日木曜日

世界は相互補完によって成り立っている ー カナダのマーク・カーニー首相の演説文を読んで

 カナダのマーク・カーニー首相によるダボス会議での演説の訳文を繰り返し読んでいる。

その言葉からは、国際秩序の衰退への強い危機感が伝わると同時に、「第三の道」を切り拓こうとする気概も感じ取れた。
カーニー首相の主張全てに同意するわけではないけれど、日本にとっても重要な提言が多々含まれた内容だと思う。

「多くの国は、食料、重要鉱物、金融、サプライチェーンにおいて、より大きな戦略的自律性を確保しなければならないけれど、要塞化した世界は、より貧しく、より脆弱で、より持続不可能なものになる」との提言は、国家としての話だけでなく、一人一人の生き方の比喩のようにも受け取れた。
「自立か依存か」という二択では個人も国家も救われない。世界は相互補完によって成り立っているのだ。

「自立」を「自給自足」や「ブロック化経済」と同一視すれば、コストは跳ね上がり、技術も人も分断され、危機対応能力はむしろ落ちてしまう。依存は危険だけれど、孤立は破滅をもたらす。
「覇権国への依存でも孤立主義でもない『第三の道』、日本を含むミドルパワー国の連携こそが新たな国際秩序を主体的に築き得る」とのカーニー首相の主張が実現に向かうことを願う。

彼の言葉から、理性や倫理を手放さないまま、現実の重さと選択のしんどさを引き受けようとする覚悟を受け取った。
後々語り継がれる価値のある、この時代を象徴する演説だと思う。

ー 2026年1月22日(木)

2026年1月8日木曜日

「綺麗事」かもしれないけれど

 2025年は、生成AIの進化に驚きと戸惑いを感じ、デマを伴う排外主義の浸透に危機感を深めた年だった。
以前とは異なり、悪意や自覚のない穏健な排外主義が社会に広く浸透したように思う。その傾向に伴ってナショナリズムの高まりも感じる。

去年の参院選あたりから、ナショナリズムを強く打ち出し、特定の政党や政権を支持するAI使用のミュージックビデオをYouTube上でいくつも目にするようになった(https://youtu.be/HC8ZZ2dDEa8?si=cLbDssXKJX6-PCfN)。今後はさらに、AIを活用した政治による音楽利用が活発化してゆくのだろう。

コロナ禍以降、政治信条や事実とデマに対する認識の違いが明確になることで、相手との関係性に亀裂が入る経験を何度か重ねた。自分のSNSやブログへの投稿が、読み手である知人の大切にしていたナラティブ(物語・語り)を、結果的に否定していたことも自覚している。

正直に言えば、最近は社会や政治に関わる投稿を躊躇する機会が増えていた。自分が臆病になったというよりも、言葉が一瞬で「立場」や「陣営」に回収されてしまう空気が、さらに強まったように感じるからだ。
「結果的に自分自身も社会の分断に加担しているのではないか」と、自問することもある。


だからこそ、他者への想像力を失いたくないし、つながりのある相手とは特に、考えが異なっていても、議論や対話が成り立つ関係性でありたい。もし、その願いが相手にとっての圧になるのなら、対話にならなくても相手の話に耳を傾けることのできる自身のキャパを保ちたい。
「綺麗事」と受け取られるのかもしれないけれど、本心だ。

ー 2026年1月18日(木)

2026年1月7日水曜日

「心の隙間」について ー 久し振りに清志郎さんの「あの娘の神様」を聴いて

 年が明けてから、ふと忌野清志郎さんの「あの娘の神様」という曲を思い出し、久しぶりに聴いてみた。

34、5年前、ライブのサポートをさせてもらっていた当時、清志郎さんがファンから受け取った一通の手紙をもとに書いた新曲として、この曲を何度も一緒に演奏していた。後に忌野清志郎&2・3’Sの1stアルバムに収録されることになるが、その頃の記憶と強く結びついた忘れがたい歌だ。

恋人が自分よりも「信じられるもの」(=神様)を見つけ、離れていってしまったことへの複雑な思いを綴った歌詞は、小・中・高と仲の良かった同級生がカルト宗教に入信し、関係が途絶えてしまった自身の体験とも重なった。
今あらためて聴いても、身につまされるような切なさを覚えるのは、この歌が2026年にも通じる、普遍的なテーマを抱えているからだろう。

自分は今も、歌詞の中で語られる「光」を感じることができず、取り残される側にいる気がしている。振り返っては考え込み、モヤモヤとした思いを抱えながら、それでも何とか、その感情を言葉やメロディーに昇華できないかと試行錯誤を続けている。歌や言葉にすることが、自分にとっての救いなんだと思う。

でも、それだけじゃ楽になりきれないことも確かだ。
今も「理解できない」「理解されない」もどかしさを抱え続けてはいるけれど、日常のささやかな出来事や人の情に救われたり、音楽を通じて誰かと同じ時間を共有することで、どうにか、ありがたく楽しい日々を過ごしている。

自分の心のベースにあるのは、「哀しみ」と「不安」だと思う。そのベースを眩い光で消し去ることで、自分自身を失うだけでなく、他者の排除へと加担することを恐れている。
「分からないこと」「分かり合えないこと」「距離があること」を、まずはそのまま受け入れるところから始めたい。そして、それでもなお、世界は素晴らしいと感じ、歌い続けていたい。

「心の隙間」は、誰にでも存在する。今は、その隙間を簡単に埋めることができてしまう時代だ。「答え」や「真実」ばかりが溢れ、「問いかけ」が蔑ろにされていく傾向に、やはり危うさを感じている。


  あの娘の神様   詞曲 忌野清志郎

あの娘は僕より信じられるものを
見つけたらしい 秋が深まるころ
僕は今までとほとんど変わらない
毎日の中で 君の神様を恨むよ

心の隙間を埋めてくれるものは
君の笑顔だったのに
心の隙間が君にもあったなんて
僕は情けない奴だな

宗教は君に何を与える
しらけた僕は恋人をうばわれただけ

心の隙間を埋めてくれるものは
君の笑顔だったのに
心の隙間が君にもあったなんて
僕は情けない奴だな

宗教は君に何を与える
何をうばったか気にも止めないほど

僕はあいにく 光を感じない
毎日の中で 君の神様を恨むよ
君の感性を恨むよ
君の教祖様を恨むよ

この世の奇跡を恨むよ


ー 2026年1月7日(水)