RADWINPSを「HINOMARU」という曲を聴いて、色々と考えさせられている。
曲を聞く前にまず、作者の野田氏がリリースにあたってツイッター上で発表したコメントに目を通した。そこには、「日本に生まれた人間として、純粋に何の思想的な意味も、右も左もなくこの国のことを歌いたい。自分の国を好きと言える自分でありたいし、言える国であってほしい」との思いが綴られていた。
https://www.huffingtonpost.jp/2018/06/08/radwimps_a_23454012/
そのコメントを読んだ後にネットで曲の歌詞を検索し、すぐに曲をダウンロードして、歌詞を追いながら曲を聴いてみた。
「HINOMARU」歌詞 http://j-lyric.net/artist/a04ac97/l0469f5.html
国体思想、国威発揚の中で使用されてきた古語を散りばめた勇ましい歌詞に対しては、違和感を拭えなかった。言葉が身についていない気がした。
和太鼓をアレンジの中心にすえ、抑制の効いた寂しげな前半から後半の盛り上がりに至る劇的な展開には、高揚と一体感をもたらす効力を感じた。
作者でもある野田氏の声は、やはり魅力的だと思った。どこか憂いを含んだ歌唱がサウンドに乗ることで、この歌が孤独と一体感のコントラストを描いているように感じられた。曲を通して受け取った、一体化へのあまりにも無防備な渇望は、自分の心を不安にさせた。
メインストリームをゆくバンドが、堂々と「愛国心」歌う時代が来たのだなと思った。
曲を聴いた後に自分はFacebookに以下の文を投稿した。
『RADWIMPSの「HINOMARU」を聴いた。
単純で大きな物語に身を委ね、自身で丁寧に新しい物語を紡いでゆくことを、無自覚に放棄してしまっているように感じた。この無自覚さに、より危うさを感じる。
こんな国体思想的な言葉遣いをすることに躊躇はなかったのだろうか?気持ちが暗くなった。』
投稿に対しては、いつもより多めのコメントが寄せられて、この件に対する関心の高さがうかがわれた。それらのコメントの中に以下のような一文があった。
「薄々感じていたのですが、リクオさんて日本が嫌いですよね。」
こういう反応は想定内ではあった。
この人や作者の野田氏が指す「日本」や「国」って何なんだろうと考えた。
自分は、長年のツアー生活を通して、日本各地でさまざまな人に出会い、各地の自然、風土、文化、歴史にも触れてきたつもりだ。五感を通して、日本の豊かな多様性を発見し実感できたことで、心の閉塞から解放され、随分と救われた気がする。各地で知り合った人達との繋がりは自分の大切な財産になっている。
生まれ育った京都、長年暮らした大阪、東京、湘南に対する愛着もある。
日本各地のさまざまな街並み、自然の風景、出会った人達のことを、すぐに思い出すことができるし、それらに愛おしさを感じる。
自分の好きな「日本」は、記号ではなく具体的になった。抽象的だった「日本」の姿が、以前よりもリアルになった。そのことによって、自分が「日本」について、まだまだ知らないことばかりだとも自覚できた。
そもそも「国」という日本語は、場合によって意味合いの変わる曖昧を含んだ言葉だと思う。
歴史学者の江口圭一氏によれば、英語で「国」に該当する言葉には、land,country,nation,stateと、少なくとも四つの表現があるそうだ。landは自然的な国土、countryは人びとの集団、nationはそれの政治的統一体、そしてstateは、そういうnationやcountryに作られる政府とか、裁判所とか、軍隊とか、議会とか、地方行政機関とかを持った国家機構を意味するとのこと。
だとすると、自分はnationとstateに対しては、嫌いとか否定ではなく、一定の距離を心がけているのだと思う。それは、自分なりに過去の歴史から学んだ結果だろう。
「HINOMARU」作者の野田氏が想いを寄せる「国」は、何を指すのだろう。
国体思想を思わせる古語を使った歌詞からは、自分も含め多くの人が、国家を拠り所とするナショナリズムへの回帰をイメージした。けれど、野田氏にそのような自覚や意図はなかったようだ。
「日本人のみんなが一つになれるような歌を作りたい」という「真っ直ぐ」な想いが、本人の意図を離れ、ナショナリズムを煽るとも受け取れる曲を生み出したのだろう。
曲を聴き、コメントを読んだ上で、「そもそも、野田氏自身の中で『国』や『愛国心』という言葉に対する定義が曖昧なのでは」との印象を持った。それらの言葉がたどってきた歴史の検証に対しても無頓着なまま、「真っ直ぐ」な想いそのままに、この時代の空気の中で、曲を書き進めていったのではないかと想像する。
2年後の東京オリンピックに向けて、今後「愛国心」をテーマにした曲への需要がさらに高まってゆくのだろう。「HINOMARU」は、そういった時代の空気の中で生まれた1曲だと捉えている。
以下は、2013年12月22日に自分がFacebookに投稿した文章。
《以前、右翼の鈴木邦男氏が私にこんな事を言った。
「昔はね、自分の周りに家族があって、家族の周りに地域社会があって………というふうに、同心円を描くような形で『自分と国家』がつながっていた。今は違いますね。家族も地域社会も崩壊し、自分と国家が直接つながってるって感じの若者が多い」
ー週刊文春12月12日号 中村うさぎ「さすらいの女王」より抜粋
自分が国家と直結している感覚は、外側から自分を眺めるメタ視点の獲得を困難にし、「自分=世界」という錯覚を簡単にもたらす。アニメ用語などで使われる「セカイ系」にも通じる世界と私の一体化は、「全体主義」につながる危険な兆候であると、コラムの中で中村うさぎは指摘しています。興味深い内容でした。》
個人が大きく強い存在と直接つながることで、「他者」への想像力が欠落し、排除と敵対が増大する。劇的で大きな物語を成り立たせるためには、常に「敵」の存在を必要となる。こういった傾向は、近年特にネット上で頻繁に見受けられる。4年半を経て、鈴木邦男氏と中村うさぎ氏の言葉が、自分の中でさらに実感を増している。
自分には、こういった傾向と「HINOMARU」という曲がリンクしているように感じる。作者にとっては、不本意な受け取られ方にちがいない。
「HINOMARU」はネット上で多くの賛否をもたらし、作者の野田氏は、謝罪を含めたコメントを発表するに至った。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180611-00000009-exmusic-musi
よくない流れだと思った。謝罪に追い込まれたという見え方が、さらに対立を煽る結果をもたらすのでないかとの危惧を抱いた。
この曲を批判した人のどれだけが謝罪を求めていたのかわからないけれど、RADWINPSのコンサート会場前で発売禁止を求める抗議街宣が企画されているという話を聞いて、こういったプレッシャーが、謝罪を急がせたのかもしれないと想像した。一つの曲に対して、批判を超えて抗議行動するというのは明らかな行き過ぎで、さらなる悪循環しかもたらさないと思う。
一方で、批判を受けて発表された野田氏のコメント文の内容にも、歌詞に共通する違和感を持った。
このコメントの中で彼が最も伝えたかった内容は、「そんな意図はなかった」の一言に集約されている気がする。きっとそうなんだろうと思う。コメントを読んで、少し腑に落ちたような気持ちにもなった。「HINOMARU」から自分が受け取った最大の違和感と不安は、その意図のなさ、無意識だった。
「この曲は日本の歌です。この曲は大震災があっても、大津波がきても、台風が襲ってきても、どんなことがあろうと立ち上がって進み続ける日本人の歌です。」
野田氏のこの言葉を受けて、自分は「日本人」と一括りにする歌よりも、日本で暮らす一人一人の物語を綴った歌の方が聴きたいと思った。実際、RADWIMPSは、数ヶ月前にそのような新曲を発表しているのだ。ぜひ、この曲も聴いてもらいたい。
RADWIMPS「空窓」 https://youtu.be/-0DZQaxPH5s
「日本人のみんなが一つになれるような歌が作りたかった」という作者の思いはピュアな本音なのだろう。けれど、そうした大きな物語を求める姿勢が内包する危うさに対して、野田氏は無自覚なんだと思う。
一体化への渇望、大きな共同体への帰属願望が、同調圧力や排除、選民意識、敵対、戦争をもたらす歴史が、日本だけでなく世界中で幾度となく繰り返されてきた。そのような時代には後戻りしたくない。多分、野田氏も同じ思いのはずなのだ。
今の日本に暮らしていて、左右両方の立場の中にも、無思想の立場の中にも、「セカイ系」の中にも、スピリチャリズムの中にも、陰謀論の中にも、さまざまな場所に、全体主義への流れを感じる。時代の無意識の先にそういう世界が待ち受けているならば、流れから距離を置き、今のうちに恐る恐る異議を唱えたいと思う。
以前から野田氏に対しては、リベラルな発言や行動を重ねてきた人との印象を持っていた。コメントにも書かれている、戦争や暴力を否定し、被災した人達に心を配り続ける姿勢に嘘はないと思っている。
けれど、そういった「誠実」や「純粋」、「素直」や「直感」が向かう先にも、危うさが存在することを、自身の肝にも銘じておこうと思う。野田氏と共通するメンタリティーが自分の中にもあると自覚している。
「HINOMARU」は時代の空気を無自覚に受け取って生まれた「純粋」な曲だと思う。その「純粋」さは、批判を受けながらも、若者を中心とした多くに受け入れられてゆくのだろう。自分は、その無自覚な「純粋」が集団に向かうことに、不安を感じている。
「リクオさんて日本が嫌いですよね」という問いに戻れば、「そんなことはない、好きですよ」とさりげない笑顔で答えたい。けれど、「愛国心」が、敵対や排除、戦争をもたらす装置として働いた歴史を忘れずにいたいとも思う。
国家や為政者、カリスマ、他の誰かが用意した劇的で大きな物語に身を委ねるのではなく、実感ある繋がりの中で、自身の手で一つ一つ丁寧に物語を紡いでゆきたいと思う。ユーモアと遊び心を忘れずに。
長文へのお付き合い、ありがとうございました。
ー 2018年6月13日(水)
《追記》
以上の文を書き終えた後に、「HINOMARU」作者の野田氏が昨夜のRADWINPSのステージで「自分の生まれた国が好きで何が悪い!」と発言したと知った。この発言はネット上で既に波紋を呼んでいて、支持者の高揚を大いに煽っている。
今後、「HINOMARU」の批判に対する感情的な批判がさらに高まり、あらたな対立を生み出してゆくだろう。こうやって話が単純化されてゆく先に不安を覚える。
本人はこの状況をどう捉えているのだろうか。