2013年6月22日土曜日

被災地からーその1

志津川から石巻へ 5月後半に行った東北ツアーは、ライブ以外に、なるべく多くの被災地を見て回り、地元の人達と交流し、現地の生の声を聞かせてもらうことを目的の1つにしました。ブログで3回に分けて、その報告をさせてもらいます。

★5月21日(火)ー被災地、志津川、石巻へ
ツアー初日の前日に当たる21日、被災地である石巻、女川の支援活動を続けるNPO法人オンザロードで活動する上野祥法君と、早朝に下北沢で待ち合わせ て、彼の運転する車で東北に向かいました。お昼過ぎには、南三陸志津川に入り、まずは、現地の知人である内田智貴君と彼のご両親らが昨年にオープンさせた 「さんさカフェ」におじゃましてランチをいただきました。
内田君とは、2年前にソウルフラワーユニオンの中川敬君、高木克ちゃんらと訪れた志津川高校の避難所で、出会いました。彼は、3.11以前は、志津川で、 兄の卓麿君と2人でバーを営んでいたのですが、3.11の震災で、お店は4千枚のCDと共に津波に飲まれてしまいました。3・11以降しばらくは、町中 で、遺体を見つけては、2人で避難場所まで運ぶ毎日だったそうです。
 お店のほとんどすべてが流されてしまった中で、奇跡的に調理師免許だけが見つかったことをきっかけに、2人はボランティアで避難所の調理担当を受け持つ ことになります。そのとき、自分達がいくつもの避難所を回った中で、志津川高校避難所は最も厳しい環境下にあるように見えました。そんな厳しい状況の中 で、とにかく明るく、バイタリティーにあふれ、キャラ立ちがよい内田兄弟の姿は、津波によるあまりにも甚大な被害を目の当たりにして、ショック状態だった 自分にとって、1つの救いになりました。
兄の卓麿君は今年に入って上京し、中目黒にglowというバーをオープンさせました。
http://ameblo.jp/glow23/entry-11496130164.html
料理も美味しくてほんといいお店です。
弟の智貴君は、両親とともに今も仮設住宅住まいです。

内田兄弟とはその後、何度かの再会を果たしましたが、自分が志津川を訪れるのは、その時以来2年振りでした。さんさカフェでしばらく、ゆっくりさせても らった後は、カフェのスタッフのじゅんさんに街を案内してもらいながら、震災当時、震災後の状況を色々と聞かせてもらいました。
高台から志津川の街を見下ろすと、更地ばかりが目立ち、3.11以前の街の姿を想像することは困難でした。久し振りに訪れた防災対策庁舎では、自分達以外にも、鉄筋だけを残した庁舎の前で、静かに手を合わせる人を何人も見かけました。
この場所で、たくさんの人達の命が奪われ、生き残った人達の人生も一変してしまったのだということを、あらためて感じさせされました。それでも、今もここ に人の営みが確かにあるということも感じることができました。2年振りに志津川を訪れて、この街がどのように”再生”してゆくのかを、確認したいと思いま した。

陽が沈む頃には石巻に入り、夜は、市街の居酒屋にて、同じく石巻入りしていた海さくら(江ノ島の海をきれいにして次世代に残すための活動をしている団体) 代表の古澤君の音頭によって、東京海さくらチーム有志と、昨年から活動を始めた石巻海さくらチーム、そして地元の人達合わせて20人近くが集まる飲み会が 催され、そこに自分も参加させてもらいました。
初対面同士が多いにも関わらず、宴は多いに盛り上がりました。震災にまつまわる貴重な話も多く聞かせてもらい、楽しくも意義深い夜になりました。その場に 集まった中には、震災のボランティアで石巻に入ったことがきっかけで、石巻に引っ越したという若者が数人いました。これは、震災後の石巻では珍しい例では ないそうです。
宴席で印象に残る話を色々と聞かせてもらいました。
「震災後のあんな苦労はもう2度とできない。もう一度震災に遭遇したら、自分はもうあきらめてしまうかもしれない」門脇町の自宅を、津波で流されたHさんのこの言葉は胸に刺さりました。
最近子供が生まれたばかりで女川暮らす知人の思い「女川の街は津波で流されてしまって何も残っていないけれど、この子の成長と一緒にもう一度新しい街づくりをしていくのだ」という話にもぐっときました。
実に濃密な1日でした。

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