2012年6月22日金曜日

官邸前抗議集会の熱気と日比谷で見た夕陽の美しさ

 首相官邸前での原発再稼働反対の抗議集会に参加する直前、日比谷で素晴らしく美しい夕陽を見た。しばらく夕陽に見とれていたので、集会に参加するのが少し遅れた。本当は、夕陽が沈みきるまで、眺め続けていたかったくらいだ。

 自分が官邸前に到着した時は既に、通りに長い長い人の列ができていて、方々からシュプレヒコールの声と打楽器の音が響きわたってきた。前回参加したときとは比べ物にならないくらいの人の数(主催側発表では4、5万人)と熱気だった。
 自分は元々、デモや集会に参加することに対して積極的な人間ではない。まず、自分自身の性格の問題があって、人と足並みを揃えるのが苦手なのだ。デモと いう主張のやり方が、ものごとを反対か賛成かに2択で割り切ってしまい、2項対立をより深めてしまう危険性があるのではないか、とも考えていた。デモや集 会に参加することで、自分が人から、ある種のレッテルを貼られてしまうことも危惧していた。
 それでも、抗議集会に参加しようと思った理由は、いくつかあるのだけれど、その内の1つを上げると、今ひろがり続けている再稼働反対のデモや集会のあり 方が、自分が今迄イメージしていた、かってのデモや集会とはかなり違っていることを知ったからだ。3.11以降のデモは、あるイデオロギーやセクトに属す る人達によって組織されているのではなく、世代もバックボーンも多岐にわたる、いわゆる運動家ではない、一般の人達の参加によって成り立ち、ひろがり続け ているようのなのだ。
 とは言え、3月に官邸前の集会に参加したときは、その場にあまり馴染めず、早い時間でそそくさと退散してしまった。ところが今回は違った。その場の熱気 と一体感に巻き込まれて、気づけば随分と気分が高揚していた。前回は参加しづらかったシュプレヒコールにも参加した。大きなエネルギーの渦中にいて、「こ れは、もしかしたら世の中が変わってゆくんじゃないか」という思いさえして興奮した。
 集会に参加した後、自分はツイッターで以下のようなつぶやきをした。
「首相官邸前の抗議集会、前回参加したときとは比べものにならないくらいのすごい人の数と熱気。4万人集まったとのツイートも。これで報道されなきゃおかしい。」
 集会に参加した直後の高揚が感じられる文章だ。このつぶやきに対しては、ほどなくして、以下のようなリプライがきた。
「妄想に取り憑かれたキチガイ」
 自分のこの日の行動とメンタルが、このような負の感情も引き連れてきてしまったようだった。
 多分、これから集会やデモに何万の人が集まろうと、この書き込みをした人の心をほぐすことはできないだろう。数や力や理屈では、他者と他者をつなぐ共感は生まれない。
 自分は、時間が許せばまた、デモや集会に参加しようと思う。いや、時間があっても気分が乗らなかったら、その日の参加はやめておこう。
 あの高揚をまた体験したいという思いがある一方で、自らの正義を疑い、
悶々としながら問いかけを続けてゆく作業を止めてはいけないと思う。デモや集会に参加することによって見失い、損なわれてゆく何かがあること、それらが2項対立を深める要素を持っていることを自覚しながら、デモや集会に参加しようと思う。

 このブログを書き綴りながら、集会に参加する前に、日比谷で見た美しい夕陽を思い出した。官邸前の集会に集まった多くの人達は多分、あの夕陽を拝むことができなかったに違いない。
 自分は、あの官邸前の熱気と、日比谷で見た夕陽の美しさの両方を皆に伝えたいと思った。

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