2011年11月15日火曜日

遠藤ミチロウさんとの共演で感じたこと

東京 学芸大学 アピア
『遠藤ミチロウBirthday Live』 出演:遠藤ミチロウ/リクオ
 久し振りに遠藤ミチロウさんと共演させてもらった。ミチロウさんのバースデイライブにゲストとして誘ってもらったのだ。久し振りに音合わせできることも 楽しみだったけれど、それだけじゃなく、この時期だからこそ、ミチロウさんと色んな話をさせてほしいと思っていた。
 福島出身のミチロウさんが関わっている「PROJECT FUKUSHIMA!」のことは、ずっと気にかかっていた。以下の文は「PROJECT FUKUSHIMA!」に掲載されたミチロウさんのメッセージ文。ぜひ読んで下さい。
http://www.pj-fukushima.jp/message_michirou.html
 この中でミチロウさんは「FUKUSHIMA原発と戦うだけでなく、自分自身との戦いも始めなければならなない。」「自分達の未来が、不安と敵対との共 存という負の連鎖から抜け出して、少しでも安らかな日常の未来を手にすることが出来るか、それは自分達自身の手にかかっている」と語っている。
 ただ東電や政府を告発するだけでなく、自身の意識や価値観が変わらなければ、世界は変わらない。「自分は今のままで、相手にだけ変われと要望する」3.11以降、そういうメンタリティーが引き起こす対立の構図が蔓延しているように思う。
 自分を変えるなんて、ホントに大変で恐ろしいことだ。変わったつもりで、なかなか変われない。気付いたつもりで、何も気付いていない。知ってるつもり で、何も知っちゃいない。自分も含め、世の中には己の傲慢さに気付かない人が多すぎるのだろう。そんな状況の中、ミチロウさんのメッセージには、人として の誠実さ、謙虚さを感じる。
 「PROJECT FUKUSHIMA!」が福島で企画した野外イベント「8.15世界同時多発フェスティバルFUKUSHIMA!」に対しては賛否両論が巻き起こった。イ ベントのやり方すべてが正しかったとは言えないだろうし、主催する側も葛藤を抱えながらの開催であったと思う。議論や批判はあってしかるべきだけれど、一 方的に非難するのではなく、もっと皆で葛藤を共有できないものかと思う。
 3.11以降、方々でさまざまな対立の構図が生まれているのを感じて、心がしんどくなる。なかなか対話が生まれない。

 1年振りに再会したミチロウさんは、いつものミチロウさんだった。ステージを降りたら、穏やかで素朴。けれどやせたなあ。ミチロウさんにとっても大変な7ヶ月だったのだと思う。
 ミチロウさんの演奏を生でじっくり聴かせてもらうのは久し振りだった。ぐっときて、ほっとした。心の奥が鎮まる感じ。なぜなんだろう。時に激しく、攻撃的で、時にメランコリックで痛々しい、原液のような表現に、懐かしい親しみを感じた。
 ミチロウさんの攻撃性は結局他者には向かわない。自分自身に向かってゆく感じ。人の醜さを見たとき、同時に自分の醜さに気付いてしまう人なんじゃないだろうか。ミチロウさんがナルシズムやヒロイズムに溺れてしまうことはないと思う。
 ミチロウさんの音楽は「きれい」ではなく「美しい」。ドロドロに美しい。自身の醜さ、矛盾、混沌に向き合うことでこそ、震えるような美しさが生まれるのだと思う。
 ミチロウさんとのセッションでは、そのエネルギーをダイレクトに受けとって、心が浄化されるような気がした。「オレは誰も殺したくなんかない!」ミチロ ウさんのこの叫びは、ホント胸にきた。自分の記憶が正しければ、この日別の曲でミチロウさんは、実は自分は人を殺している、というような歌詞を歌ってい て、この2つの言葉は、補完しあい、つながっているように感じた。
 この日、ミチロウさんとは、思っていた程長い時間は話せなかったけれど、演奏を聴いて、セッションさせてもらうことで、充分にたくさんのものを受け取った気がした。今もライブの余韻が残っている。
 「オレは誰も殺したくなんかない」 
 あの夜以来、その言葉が自分の中でリフイレインされ続けている。

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