2011年10月16日日曜日

被災地を見て回る

 相馬市ライブの翌日は、森田さん、えくちゃんにガイドをしてもらって、相馬市以外の遠方からやってきたお客さん達含め総勢9名で被災地を見て回った。そ の中には、知人の2人、東京で雑誌編集者をしている吉田君、長崎でR-10というバーをやっている工藤ちゃんも参加。遠方から来た人達は皆、相馬の現状、 放射能のことを一定以上理解して、参加してくれているようだった。
 自分はえくちゃんが運転する車に乗せてもらったのだけれど、彼女が被災地を回りながら語る震災、原発事故後の体験談は強烈で、ここで伝えることを憚るような内容の話も多かった。
 まず連れて行ってもらったのが「災害ごみ集積所」、つまり震災による瓦礫置き場。人々の暮らしの想い出がつまった場所を、このように表現してしまうことには、ためらいを感じる。しかも、この場所からは遺体も発見されているそうだ。
 津波にすべてを持っていかれた沿岸沿いの街は、瓦礫の撤去がかなり進んでいて、3.11以前の街の姿を想像することは困難だった。沿岸沿いは80センチ程の地盤沈下が起こっていて、満潮時には道路が浸水してしまうそう。
 津波で壊滅した港で、多くの人達が釣りを楽しんでる光景は意外だった。釣った魚はどうするのだろう。放射能汚染は気にならないのだろうか?港では津波で陸地に打ち上げられた船を何隻も見た。
 震災後のどさくさで相馬市の治安は悪化して、森田さんが市街で経営するCDショップには2度も空き巣が入ったそう。
 相馬市の被災地を見た後は、南相馬市に移動し、障害者の自立のための作業所「えんどう豆」におじゃまして、この作業所を運営する佐藤さんから、震災、原 発事故後の生々しいお話を色々とうかがう。佐藤さんは震災後に、南相馬市に残っている障害者の人達を支援する「つながり∞ふくしま」というプロジェクト立 ち上げた。自分もそのプロジェクトに賛同して、ケイヤンとのツアー用の物販として缶バッジの製作をお願いした。御陰さまで大好評で、ツアー途中で缶バッジ は売り切れ、再発注させてもらった。この日は、実際に自分の手でその缶バッジの製作を体験させてもらった。
 南相馬市へ入ると、目に入るほとんどの田畑は放射能の影響で耕作されていなかった。除染のためなのだろう、何軒もの民家の木が切られているのも目に入った。
 吉田君が持参したロシア製のガイガーカウンターRADEX1503が示した南相馬市街の線量は、0.2μSV/h台だった。けれど、市街を離れ田畑や山 に囲まれた自然が近い場所では、線量は倍以上の数値になった。線量は7月に南相馬を訪れた時と変わらない状況だった。7月にはほとんど閉まっていた国道沿 いのお店のいくつかは再オープンしていた。
 原発事故以降、多くの人達が南相馬市を離れた。疎開してまだ戻って来ていない人もいるし、引っ越してしまった人も多い。前日に共演した朝倉君のように、 子供だけを疎開させている家族もいる。えくちゃんから聞いた話では、子供が疎開した場所でいじめに合ったりして馴染めず、帰って来る例も多いのだそう。そ んな状況の中で、緊急時避難準備区域の解除に伴い、南相馬市原町区の小・中学校が再開した。果たして、幼い子供を街に戻すことが正解なのかどうか、小・中 学校を再開すべきなのかどうか、南相馬市以外の人達も一緒になって考えるべき問題だと思う。
 えくちゃん、森田さんの話を聞いていて、自分達が暮らす街が、国から見放されているという思い、そのことへの憤りや、相馬や南相馬の現状を他人事にせず、もっと多くの人達に知ってもらいたいという願いを強く感じた。 
 南相馬から一端相馬市へ戻ってこの日のツアーは終了。森田さんが新幹線に乗れる白石蔵王まで自分と吉田君を車で送ってくれる。しかし、白石に行くとなる と、やはりミルトンに寄らないわけにはいかない。そして、ミルトンに行けば、やはり三浦夫妻と飲んでしまうのだった。12月17日(土)にはミルトンでソ ロライブをやります。お近くの方はぜひ。
 帰りの新幹線の車中でも吉田君と、この2日間で見たこと、感じたことを確かめ合うように、たくさん話をした。
 ネットやテレビから得る情報だけでは、わからないこと、感じとれないものがたくさんあるのだということを、あらためて実感した。ツアー生活の中で、現場 に身を置き、五感を使って受け取ったものを、伝えたり、形にすることが、自分にできる役割の1つなのかもしれない。

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